恋をしていた、あなただけに

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恋をしていた、あなただけに

 もうすぐ、この痕は消えてしまう。だから最後の瞬間まで、皇輔のつがいでいたい。 「ここは……っ俺にはこれしか、残らないから、まだ消さないで……!」 「だけど、こんな匂いがするんだ、本当はつがいじゃなかったんだろう? このままじゃ誰に襲われても文句は言えない……それなら、まだ僕のほうがマシなはずだから……」  手を外させようと腕を掴まれ、必死で抵抗する――そのときだった。 「離れてって言いましたよね」  ガチャッと、開くはずのない扉が開いて皇輔が部屋に入ってきた。彼は忍に馬乗りになった直之の、コートの奥襟をわし掴む。 「だめでしょ、俺のつがいを押し倒しちゃ」 「なん、で……皇輔……!?」  右手に持った小さな鍵を見せた皇輔が、「窓割らずにすみました」と言ってそれをポケットにしまう。忍ですら合鍵の存在に驚くが、彼は怒りも慌てもしないまま、反対のポケットから特効薬を取り出した。 「まさか兄さんに騙されるとは思いませんでしたよ。『怪我をして動けないらしい、救急車を呼んだけど鍵を開けられない』でしたっけ。慌てて家を訪ねたら、あの人発情期に入ってるし……けど詩織さんが俺の顔見て、なんて言ったか教えてあげましょうか」 「は……? っう」  注射器のふたを口で開けた皇輔は、躊躇なくそれを直之の太腿へ刺した。細身の器具はアルファ用を示す青のストライプ柄をしていて、皇輔の保管していたものだとわかる。興奮を強制的に沈静化させるアルファ用特効薬は、効果が出るまでの十数秒、アルファが動けなくなるよう三半規管に影響を及ぼすようにできている。  ふらりと揺れた直之の身体を押しのけた皇輔は、忍を背に隠すようにしゃがみこんだ。 「『あんたじゃない。チェンジ!』って怒鳴り散らされました。だから俺も言ってやったんです。『それは、こっちの台詞です』って」  ベッドに掴まって起き上がった忍は、皇輔の背中越しに、涙をこぼす直之を見た。 「詩織、が……ッ?」 「俺は葛城のやり方に逆らう気も、縛られることを不満だとも思ってないんですよ。だから兄さんが謝ることはないし、罪悪感を覚えることもない。運命のつがいだからって、詩織さんを俺に譲ろうだなんてのも、もちろん不要な気遣いです」 「だけど皇輔、皇輔はずっと自由がなかったじゃないか……!」 「あー、それは自分で作るんで。まあ、唯一不満があるとすれば……俺のつがいは生涯、忍さんだけって決めてんのに、外野が邪魔ばっかりすることですね。勝手な価値観でこの人のこと愚弄するから、いずれ社会的に消滅させてやろうと思ってますけど」  ってことで、もう立てるでしょ、帰ってくださいね。  ――そう言って直之を追い出す皇輔の手際は、非情でいて思いやりがあった。早く詩織のところへ行ってやれ、と兄の背中を押す、優しい弟だ。  そうして二人きりになると、彼は少し離れた位置で立ち止まる。 「すみません、これ以上近づけなくて……大丈夫です? 動けます?」 「ん……へ、平気」  嘘だ。本当は全然平気じゃない。だが「無理だ」と口に出すと、本当に無理になりそうで怖かった。 「ごめん……俺、発情期……で」 「そうですね。匂いが……はぁ、……やばいですね、兄さん追い出したらホッとして、今頃……」  ふー、ふー、と腹を空かせた獣みたいな息遣いになりつつある皇輔が、壁伝いに座りこんだ。「動けない」と呻く声が腰を痺れさせるほどに劣情を孕んでいるから、じゅわっと腹の奥からあふれてきたのがわかる。 「おー、すけ……」 「すいません、名前呼ばないで。マジで……あー、なんなんですか、この匂い。こんなすごいの久しぶり……きっつい」  薄暗い家庭科室で「くさくて最悪です」と吐き捨てていた横顔と、ここ最近の素っ気ない態度を思い出す。肝が冷えた。 「あ、く、くさい?」 「や……正直、それどころじゃないですね」  ぐったりと目を閉じた皇輔は限界が近そうだ。動けないと言っていたし、特効薬は通常一人一本しか保管できないから彼の手持ちはもうない。  興奮しきってどろりと溶けそうな身体を動かし、座りこんだままチェストの一番上の引き出しの中身を床へぶちまけた。さっき乱雑に突っこんだ空のシートが床をすべる。 「待って……待ってね、ごめんね、大丈夫だから……すぐに匂い、しなくなるからね」 「……忍さん、その薬……何?」  皇輔のヒートをどうにもできないなら、忍のフェロモンを抑えるしかない。最悪、お互いが理性を失って獣よろしくまぐわうことになりかねない。そんな事態になったら、皇輔は後悔するし、忍に頭を下げるだろう。  袋と箱の中に特効薬を探し、見つけた一本をすぐに太ももへ刺した。ピンクのストライプ柄をした特効薬はオメガ用で、アルファのそれみたいに眩暈を起こしたりはしない。  使い捨ての器具を放り、くん、と服を嗅ぐ。  錠剤の抑制剤よりずっと成分が強いのだから、さすがにこれは効くはずだと皇輔を振り返った。 「どう……かな?」 「……いえ。でも少し待てば、多分、効いてくるはずです」  効くかもしれないが、保障はない。忍は青褪めて狼狽え、夢中で二本目の器具を取った。  その瞬間、鋭い怒声がビリビリと響く。 「絶対打つなよ……!!」  ビクッと身体が大げさに震え、初めて皇輔に怒鳴られた動揺で手の中から器具が転がり落ちる。痛いくらいに伝わる怒りが血の気を引かせ、震えが止まらない。 「っ……だ、だって、ぇ」 「だってもクソもないから! つーかその薬の量なんだよ、なんで三本も特効薬があんだよ、嘘だろ? あんた、病院以外の薬も飲んでたのかよ……!」  丁寧な言葉遣いも遠慮も捨て、皇輔は壁に背を預けたまま大きく見開いた目で忍をにらみつける。眉間に寄ったしわは威嚇する狼のようで、今にも唸り声が聞こえてきそうだ。  しかし感じるのは、この期に及んで忍を案じてくれる、優しい彼の感情だった。 「く、くさいの止まらなくて、ごめん……薬効かなくって、だから……っごめんね……」  情けなくて、申し訳なくて、一体自分がどうすればいいのかわからない。羽織っているカーディガンを頭にかぶせ、じっと身を小さくする。そうすれば温かく肌ざわりのいいお気に入りのカーディガンが、大きな網目で余計なフェロモンを絡め取ってくれるんじゃないかと夢みたいな期待をした。  ――ばかですね。  部屋に溶けた声は、空耳だろうか。 「いい匂い、ですよ」  か細く、かすれた声が聞こえる。  忍がそろりと顔を出すと、浅い呼吸で理性をつなぐ皇輔がとろりと微笑んだ。この世の全てに興味がなさそうな冷たいまなざしが内包する慈愛は、天使にも負けないだろう。 「移動教室のあと……眠くなったのでサボってたら、信じられないくらい、いい匂いがしたんです」 「え……?」 「辿ったら、あんたが襲われてた。その光景を見たとき、俺のつがいに触るなって思いました。話に聞く運命のつがいの匂いとは違うけど……甘くて、子守歌を聞いてるような香りでした。守りたくてそばにいるうちに……あんたがあんまりにも健気で、俺にどっぷり甘えてくるから、ホント……可愛くて可愛くて、気づいたらどうしようもなくなってた。知らないでしょ、俺はあんたを四六時中ポケットに入れて持ち歩きたいって思ってんですよ」 「うそ……?」 「嘘なもんか」 「オメガ嫌いって、言って……」 「俺だけはあんたを襲いませんよって信じこませようとしたら、そう言うしかないでしょ。そばにいたがった十五歳の俺の、精一杯の悪知恵でした」  ふは、と見たことのない笑い方をして、皇輔は壁に後頭部を預ける。 「俺の運命は、あの人じゃない。こんなに愛しく思えるんだから、俺の運命は忍さんなんです。そう決めたんです、十年前に。死ぬまでに口説き落とすつもりでいるけど、無理だとしても、ずうっとあんたにとって安心できるアルファでいられれば、一緒に暮らせるだけでいいと思ってたくらいなんですから」  次から次へと突き刺さる愛の口説を、忍はどんな気持ちで受け止めればいいのかわからなくなった。うれしいのに戸惑い、目を泳がせ、ゆっくりと袖で顔を覆う。 「どう、しよ」 「どうもしません。隠さないでくださいよ。見せて、可愛いあんたの顔」 「皇輔……俺の知らない、人みたい、で」 「ひどいな。兄さんのほうがいいって言われて、これでも焦ってるんです。大好きですよ、俺の運命の人。俺のほうが、あんたのこと愛してるから、幸せにできるから、俺で手を打っときましょうよ」  手のひらを返したように必死に口説くのが、忍を奪われそうで焦っているから、なんて信じられない。信じられないのに、信じたい。  腕を下ろし、胸を押さえて息を整える。 「直之さん、は……好きだけど、それはお兄さんとして、だよ」 「さっき兄さんがいいって言ったのは?」 「皇輔が……詩織さんと、つがえるように……」 「ばか」 「だって……皇輔も、詩織さんと会った後、その、……興奮してたみたい、だから。そんなに惹かれるんだ、って思って……」  皇輔は意味がわからなそうだ。眉を寄せ、今にも「はあ?」と言い出しそうな顔をしている。  仕方なく、皇輔と詩織の逢瀬を知った夜、自室にこもったあとの行為を指摘すると、大きなため息を吐かれてしまった。 「そりゃしますよ。扉開けたら、あんたの甘ったるいおいしそうな匂いが充満してるんですから。あの場で狂って押し倒しそうでした」  顔を見れなかったのも全部、忍を怖がらせたくなかったからだ、と語る彼の声は甘い。 「ねえ、お願いです。まだ俺といてください。今度はちゃんと口説いて振り向かせますから。忍さんに、アルファだけど好きって思ってもらえるように頑張りますから」  アルファを好きになることはない、と言い切った忍の戯言を、ずっと覚えていてくれたのだろう。彼の重荷になりたくなくて、うそぶいた、十六歳の忍の精一杯の悪知恵を。  もう、いいだろうか。言ってもいいだろうか。  むせぶように次々あふれる想いで、そろそろ呼吸困難になりそうだった。 「俺……利害の一致だなんて、ホントは思ってなかった、よ」 「……それ、俺に都合よく解釈しますよ」 「いいよ、して……っ一年でも一カ月でもいいから、皇輔のつがいになりたかったんだ。いつか誰かがもらう皇輔を、ちょっとだけ欲しかった……嘘ついて、ごめんね……っ」  十年前についた嘘を、ようやく懺悔できた。  よどみきって底の見えない沼みたいになっていた罪悪感が、「うれしい」と言って笑った皇輔のおかげで澄んだ泉へと戻っていく。 「俺も……うれしい、皇輔……っ」  そうだ。最初は、こういう恋だった。  欲張って自分を守り、言い訳ばかり振りまいて濁らせてしまったけれど、それでも――やはり忍は一瞬たりとも恋をしていない時間はなかった。 「ずっと、ずうっと、皇輔が、好きだよ」  にじむ涙を袖で拭うと、皇輔が拗ねたように言う。 「今も、好きですか?」 「好き。明日も好きだよ。明後日もだよ」 「生きててよかった……まあ、俺はあんたの二百倍は忍さんが好きですけどね」 「違う、俺のほうが好きだよ」 「いや、無理でしょ、あんたじゃ勝てない」  こうなったらどちらも譲らない。家事の担当を決めたときより揉めそうだ。  ふと、皇輔が長いため息を吐く。 「さっきより特効薬効いてきたみたいですね」 「あ、うん……ごめん、えと、……する?」 「ばか、誘わないでくださいよ。ああ、違います、したくないわけじゃないです、したいです、抱きたい……もうホント、だめ」  勝手に落ちこみかけた忍を引き留め、皇輔は汗ばんだ自分の額を押さえる。 「初めて抱いた日に、あんたの記憶飛ばすようなことはしたくないんですよ。自分でも正直、何するかわかんないんで……すみません、今日は一人でどうにかできます?」 「う、うん」 「じゃあ俺、そろそろ動けそうだから……出るんで。すぐ鍵かけてくださいね」  今触れてほしい。抱かれたい。  オメガの、忍の本能が皇輔を引き留めたがっている。けれどおとなしくうなずいた。彼の希望を無視してまで自分の欲望を押しつけたいわけじゃない。  しかし立ち上がって背中を向けられた途端、さみしさで思わず声をかけていた。「皇輔」と呼べば、振り返った男が「ん?」と、うっとり目尻を細くする。  甘くて――甘すぎた。犬がだらしなく舌を出して涎を垂らすように、下着の中では性器と孔から欲情があふれていた。  発情期とは別の、純粋な肉欲が、忍を冷静ではいさせてくれない。 「そ……それ、だけ……ちょうだい……?」  震える指を伸ばし、皇輔の顔を指さないよう、慎重にポケットを示す。 「ハンカチですか? いいですけど……」  皇輔に触れられないなら、せめて皇輔の匂いがするものに触れていたい。水で薄まっていない、彼の香り。  あまり近づかないよう気をつけながら、ハンカチを差し出される。  忍はそれを受け取り、まだ皇輔が目の前にいるというのに、無意識にハンカチを嗅いだ。鼻に押しつけ、これまで我慢し続けてきた行為を、恥も外聞もなく堪能する。 「んぅ……っ!?」  ――鼻腔を駆け抜けた甘い香りが、脳天を直撃した。  心臓が今にも爆ぜそうなほど脈動し、息が切れる。床について身体を支える片腕から力が抜け、うずくまった。  信じられない。 「ぁ、うそ……うぁ、あ……っン、んん!」 「え……しのぶ、さん?」 「ふぁ……! んー…っ、ん、好きぃ……いい匂い、する、大好き……好き……っ」  ゾクゾクと得体の知れない感覚が脳髄から全身へと広がっていき、身体がビクビクと勝手に跳ねていた。息を吸うたび、皇輔の香りを嗅ぐたび、眩暈がするような快楽が理性をぶん殴る。下半身に直結していくそれらは、触れてもいない性器から白濁を噴き出した。 「イク、……ッイク、いってる……っんぅ、く、またぁ……っあ、見ないで、っ」  止まらない。下着の中でくたりと力を失っているそれが、鈴口からダラダラと汁をこぼしている。ぬるついた布地が張りつく気持ち悪さもひとつの快楽となって、忍は床の上で見悶えた。 「あんた……俺の匂いで、そんななんの……?」  立ち尽くす皇輔が何かを言っているのはわかるが、具体的に何を言われているのかはわからない。意識は全て彼の匂いがするハンカチに集中しており、呼吸の都度訪れるエクスタシーに感じ入っていた。  恍惚と目を閉じ、香りで想い描けるだけの皇輔を想像する。  きっと肌に直接鼻先を寄せたら、もっと甘くていい匂いがするはずだ。筋肉がしっかりついた身体は温かな皮膚に覆われ、恐らく押すと固い。耳の後ろから襟足へと、刈り上げた黒髪をさすればどんな感触だろう。なだらかな隆起を全て掌で撫でると性感を受け取ってビクつくだろうか。太く逞しい腰からスラックスを下ろせば、彼は忍を欲しがってくれているだろうか。  皇輔。皇輔。――皇輔。  うわ言のように繰り返す忍は、不意に香りを失ってまばたいた。手の中と鼻の先からハンカチが消えている。身体の奥でふくらむばかりだった欲情が的を失い、どこに向かって迸ればいいのかと混乱した。 「ぁ……?」  夢から叩き起こされたような気分で身体を起こすと、すぐそばに立っている皇輔に気づく。彼の手には、今しがたまで忍を慰めてくれていたハンカチが握られていた。 「か、……返し、て……それ、おれの」  手を伸ばしたのに、ひょいと皇輔はハンカチを高く上げる。意地悪をされているのだと思い、涙がにじんだ。 「ちょうだいって、いいよって、言った……っ」 「ええ、あげますよ」  短くそう言ったかと思うと、皇輔はハンカチを背後へポイと捨てた。捨てた布に気をとられている忍を引き寄せ、膝をついて、背中と膝裏へ腕を通す。そのまま彼が立ち上がると、忍は軽々横抱きにされていた。 「……!?」  ハンカチより、洗濯ものより、ずっと濃い皇輔の匂いだ。驚愕は匂いに包まれただけで薙ぎ払われ、脱力する。  皇輔はリビングを突っ切って、自室の扉を蹴り開ける。壁にぶつかって扉が跳ね返ってくる前に、忍は彼のベッドへ放られていた。 「は、はぁ……っあ、ぅあ、んぅ……ッ」  ――これはまるで暴力だ。掛布団、マットレス、シーツ、枕……部屋の中。抗議が言葉にならない。  皇輔の匂いしかない場所に身体を投げ出す忍は、背を弓なりに反らし、爪先でシーツを蹴った。一体何度目の吐精だろうか。熱の集まる中心がトプトプと治まらない悦びを吐き出している。 「すごいですね。俺の匂いでそんだけラリって、気持ちよくなれるんですね。ああ……もう、声も出ないです?」  ベッドに膝で乗り上げた皇輔が、もじもじとすり合わせる忍の膝を押し開く。ゆっくりと腰から腹、胸へと重い身体を重ねてきた男は、ミルクチョコレート色の髪を踏みつけないよう頭の脇に両肘をついた。  すぐそばまで迫った唇が、今にも触れそうだ。湿った吐息が唇にぶつかるとキスへの欲望が募る。普段はあれほど感情を宿さない瞳が、今は好物を前にした子どもみたいにはしゃいでいた。 「ハンカチだけでいいんですか?」 「ぅ……、え?」 「欲しいものがあるなら、もっと言っていいんですよ、なあんでも」  小賢しい悪魔のような、慈愛に満ちた女神のような囁きだった。忍は乾いた唇を震わせ、頭のそばにある腕を掴む。 「い……言ったら、くれる? なんでも、くれる?」 「あんたが欲しがるなら、ハンカチでも服でもシーツでも……金も家も車も、愛でも、俺が持ってるもんは、なんでも全部あげます」  惜しげもなく与えられるのは、ひざまずいて手の甲へキスするような曇りない従愛だった。神の寵児と呼ばれる最高のアルファが、甘えるように鼻先をすり寄せてくる。 「俺は、あんたに捧げられないものがない」  欲望を詰めこんだ箱のふたが、言って、と囁かれて開け放たれる。息を吸う。  昔から、忍の欲しいものはひとつだけだ。  ずるりと下着ごとズボンを脱がされると、柔らかくてふわっとした布団の感触が直に肌をくすぐった。羞恥を感じて身を隠すような理性は、とうにない。 「皇輔……早く……っ」 「あんま急かさないで……じっくり愛させてくださいよ」  立てた膝にキスを落とした男が、リップ音を鳴らしながら皮膚の薄い内股へ吸いつく。少しずつ付け根へ向かっていくから、焦れる忍はゆらゆらと腰を振った。 「ぁ、あ、あ」 「こーら、動かしたらやりにくいでしょ。おとなしくして」 「ん、んぅ、無理……」 「じゃあまたこっちに戻りますね」 「え、あぁっ」  皇輔がこんなにも意地悪だと、忍は知らなかった。  もう少しで中心へ触れそうだった唇を取り上げ、唾液をまぶした指先で胸の飾りを捏ねられる。長いことキスをしながらなぶられたそこは、すっかり赤みを増して普段よりふくらみ、固くしこっていた。 「あ、あぅ、そこやだ……も、いいからぁっ」 「俺はずっと見ていたいくらいなんですけどね。真っ赤になって美味しそうだし、乳首しかいじってないのに……ちんぽの先がどんどん濡れてくの、可愛すぎるでしょ」 「やだ、ぁ」 「やだやだ言うわりに、絶対抵抗しないとこ、健気で大好きですよ」 「――……ッ」  身を屈めた皇輔が、片方の乳首を唇ではさんだ。ぬるついた舌先に濡らされ、ふうっと息を吹きかけられる。 「兄さんが触った分、もう俺で上書き完了しました?」 「ん、した、したから……!」 「よかった。わかります? 可愛い声が聞こえてきて……兄さんが触ってるってわかったときの気持ち。ドアを蹴破らなかったの褒めてくださいよ」 「ひっ、ん、……んっ」  充血して勃ち上がった乳首に強く吸いつかれ、ぞっと背筋を駆け下りたのは恐怖と快感だった。ジュッジュッと腔内に引き入れられて舌と歯でぐちゃぐちゃになぶりまわされると、そのまま取れて美味しく食べられてしまうのではないか、と不安に駆られる。  皇輔が唇を離すと、乳輪の周辺まで濡れそぼったそこは歯形と赤みが残っていた。 「忍さんの胸、エッチな色になりましたね」 「おーすけの、せい……っ」 「当たり前です。俺以外がしたら大変なことになりますよ。させないでね」  冗談めかして付け足した皇輔が、指先で乳首をピンと弾いて遊びながら、薄い腹を下って腰骨の辺りにかみつく。ビックリして身体が跳ねると、勃起した肉茎が彼の頬を打った。 「早く舐めてってことですか?」 「あっ違う、そうじゃ……んっ、あ……!」  ねっとりと熱い腔内にのみこまれていく快感は、想像を絶するものだった。唾液で潤う口の中で、ピッタリと裏筋を舌が覆い、吸いつかれたまま挿入されていく。上あごのぼこぼこした部分に亀頭がこすられたかと思うと、今度はつるりとした感触を経て、狭い喉へと促される。嚥下する動きはそのまま肉棒が溶けてしまいそうに気持ちよく、忍はガクガクと腰を震わせた。 「う、やっ、飲んじゃやだ……!」 「ひおひいいえふあ?」 「そ、そこでしゃべるの、だめ……っあ、でちゃ……出ちゃう、イッちゃう、離し……っ」  生まれて初めての口淫が寄越す強烈な快感にひれ伏し、忍は放逐を訴える。どうにか彼の口には出すまいと内腿に力をこめて耐えるが、「気持ちいい」に慣れていないゆえに、そう長くもちそうにない。 「おーすけっ、離して……っ!」 「んー」  皇輔は生返事をしただけで、舌の表面を亀頭にぴたぴたと押しつける。 だが込み上げる射精感のままに吐き出すことはなかった。 「ふ、ぅうう――……ッ」 「俺の匂いで何回もイッてたし、出すのは我慢してくださいね。じゃないと、大事なときに気絶しちゃうかもしれないでしょ」 「ぁが、ッんぅ、い、イク、イキた、あぅ」  皇輔の指に、しっかりと茎の中腹を締めつけられている。ぐるぐるとうずまき、尿道を駆け上がってしぶくはずの精が突き当たりで惑い、行き先を見失って暴れていた。 「苦しいですよね、すみません。もう少し頑張って」  ちゅるりと先走りを啜るように舐めとった皇輔が、ようやっと中心から口を離す。寸止めの苦しさで痙攣する脚を撫でさすると、潤滑油をぶちまけたかのような濡れ具合の後孔へ指を添えた。 「俺のために、こんなに濡らしてくれたんですね。うれしいです。可愛い。もうすぐ、俺の形にしてあげますからね」 「んあぅ、っん……っ」  抑揚のない声は、皇輔の興奮を教えてくれる。息遣いは忙しなく、焦れているのは忍だけじゃないとわかった。  しかし皇輔は決して急くことなく、きつい窄まりをじっくりあやす。  最後にそこを暴いたのは同級生のアルファだったはずだ。種を植えつけられる前に、皇輔が乱入して助けてくれた。血の流れるそこを嫌がりもせず綺麗に洗い、薬を塗ってくれたことを思い出す。  あのときは、あまりにはしたないから言わなかった。忘れたフリをしていたけれど、実は今も思っている。  今は、言っても許されるはずだ。 「皇輔……なら、痛くても、怖くないよ。……早く欲しいよ」  未だ指を挿入しない皇輔が、ピタリと動きを止めた。  彼はハイクラスアルファで、忍よりなんでもできて、強くて格好いいけれど――ひとつ年下の、可愛い男だ。甘やかしたくもなる。 「俺の欲しいもの、なら……訊かなくっても、わかるんでっ、んン……ッ!」  添えていただけの指が、愛液のぬめりを借りて根本まで沈められた。長い指は狭い内側を圧迫する。思わず息を詰めると、食いしめた唇を覆うように皇輔のキスが塞いだ。  口の中と下肢から、グチャグチャと激しい水音がする。上は舌に、下は指にかき混ぜられて、愛されるために熟していく。甘い匂いを立ち昇らせ、愛しいアルファを目一杯に誘惑する。  肩を上下させる皇輔が口づけを解くころには、忍は酸欠と快感でぐったり手足を投げ出していた。力強くみなぎっているのは、射精を許されず硬度を保っている屹立だけだ。  皇輔は忍から離れて服を脱ぐ。脱いだその手で服をハンガーにかける癖のついた男が、野性味あふれる乱雑さで床へそれを捨てた。  常夜灯の頼りない明かりを背負い、覆いかぶさってくる身体を抱きしめる。想像していたよりずっと硬く、重く、すべらかな感触で、筋肉のでこぼこが愛おしい。だけど首筋に埋めた鼻先から忍を犯す香りは、求めていたのと同じ甘い匂いだった。 「やっと、来てくれた……」 「乱暴にされんの、嫌いなくせに」 「皇輔だから、いい」 「強情」 「しつこいよ」  額同士をコツンとぶつけた皇輔が、汗の浮かんだこめかみにキスをする。そうしてしがみつく忍に腕を離させ、シーツの上でコロンとうつ伏せにした。 「こっちのほうが、少しは楽なはずなんで」 「……うん」  向かい合っていたいし抱きついていたいが、忍はバックの体位を受け入れた。最大限に労わられているのに、無碍にする気はない。  促されるまま膝を立てて尻を上げ、尾てい骨から背筋に沿って落とされるキスを味わう。  唇は徐々に上体へ近づき、やがてうなじに触れた。ため息。髪の生え際に押しつけられたのは、恐らく鼻先だ。 「本当に薄くなってますね」  微睡むようにうっとりと愛撫を感じていた忍は、ハッと目を見張った。 「え、皇輔、それどういう……」  頭を上げて振り返る前に、尻たぶを熱く火照った手が掴んで両側へ広げた。こんなふうに空気に触れ、誰かの面前へ晒すことのない場所を露わにされたのに、羞恥よりも期待が上まわる。  くちゅ、とあてがわれたのは、何年も欲しかった彼の一部だった。 「抱きますよ」 「んぁ、あ、……ッ……」  ぐぬぅ……と張り出した先端が襞を広げ、忍の中へ侵入する。硬く大きなそれはまるで熱した杭をのまされたように思え、息が詰まる。皇輔は肩や背中を撫で、無理にねじこもうとはせずキスであやした。 「大丈夫。ちょっとでかいかもしれませんけど、あんたのことが好きすぎて、こうなっただけですから。怖くないですよ」 「平気……ガッて入って、大丈夫だよ……?」 「馬鹿なこと言わないでください。……力抜いて。俺のこと、考えて」  これ以上どうやって?  なんて問えばひどいことになりそうな気がしたから、後孔に含んだ皇輔から意識をそらして身体の力を抜く。 「ん……ごめん、ね、すぐ、ちゃんとできなくって」 「何言ってんですか、我慢できなくて挿れさせてもらってるのは俺のほうですよ。とりあえず……一回、奥までつながらせてください」 「は、ぅう……っ」  すっかり萎んだ忍の陰茎と、ささやかな嚢を皇輔の掌が柔らかく揉みしだく。器用にころころと刺激されると射精できなかったことを身体が思い出し、わかりやすい感覚を追い始めた。 「ぁっ、あ、……それきもちい、ん」 「そう……上手です、息止めないで。もう少しで……」 「は、はぁっ、はあ……ん、は、あ!」  ぱつん、と尻に皇輔の腰がぶつかった。頭を下げていた忍は、恐る恐る首をひねる。 「はい、った……?」 「入りましたよ。忍さんの中に、全部……」  指を誘導され、結合部に触れた。皇輔をくわえこむそこは、みっちりと広がっている。ぽってりと熱を孕んだ肉筒が硬い怒張を欲しがり、きつく締めつけているのがわかった。 「皇輔、だあ……」 「そうですよ。このまま……少し、馴染ませましょうか」  すぐに動きたいはずなのに、皇輔は忍を気遣って背中へキスをした。体重で潰してしまわないようシーツに手をつき、襟足の髪をかき上げる。 「一度つがいにしたら一生安心だって、最初は思ってたんです」  薄くなったかみ痕を唇でたどり、さみしそうに言う。 「でも違うって知ってたのに……俺が馬鹿でした。甘かった。数カ月前から……なんでかフェロモンが香るようになったなって思ってたんです。けど、ちょうど薬が変わったばかりだったから、そっちの影響だって勘違いしてました」 「……え、ちょっと待って、……え?」 「知ってますよ。忍さんの診察結果と処方箋は、全部俺に報告が入るようにしてますから」  告げられた内容は衝撃であるのに、うなじにキスをされる感触も、リップ音も可愛らしくてちぐはぐ感がある。忍の混乱をわかっている男は、慰めるように汗で強く癖のあらわれた髪を撫でつけた。 「もっと白状すれば、わざとあの医者の勤務先付近に引っ越しました。つがい契約が消滅した症例を偶然知って、調べるうちに、あの医者が当事者だって判明したので。彼なら、万が一忍さんと俺のつがい関係が薄れたときに具体的な対応ができる」  どうやら知らないうちに、忍のプライバシーは皇輔に筒抜けだったようだ。それどころか担当医の過去すら調べていたなんて、怒りも焦りも越えて呆けてしまう。 「皇輔、それ、多分だめなやつ……」 「そうですね。でも忍さんの身体に何かあったとき、俺はそれを知らないままではいたくなかったんです。あんなに薬溜めこんでるとは思いませんでしたけど……やめましょうね、あんな飲み方」 「あ、うん、はい……ごめんなさい」 「次やったら、今度は忍さん名義のクレカと郵便物も監視しますからね」  なんという清々しい開き直り方だろうか。  呆気にとられ、思わず「わかった……」と口走ると、褒めるように後頭部へ唇を押しつけられる。  皇輔は髪に鼻先を埋め、匂いを嗅いでいた。 「引きました? あんたのこと好きすぎて重い俺のこと」  なんでもできるくせに、頭がいいくせに、皇輔はわかっていない。  十年前の忍は、残り約六十年ほどの生を全て、皇輔を想う日々につぎこむことを決めた。愛しい人を想うまま愛して、一人で墓に入る未来を選んだ。笑えないくらいに重い。 「引くわけない……うれしい、すごく」  肘で身体を持ち上げ、顔を振り向かせる。  人によっては「にらまれている」と感じる、この世の何にも興味がなさそうな無感情な瞳。だけど忍は、覗きこんだ皇輔の目に自分が映っていることを知った。黒々としたその場所で、愛でられ、大切に守られている。  使った記憶も曖昧な実家の自室より、忍のために建てられた広い離れより、温かくて居心地のいい忍だけの居場所だ。  言ってもいいだろうか。――ここを、手離したくないのだと。 「俺のつがいになっちゃうとかさ、どう?」 「…………ッはは」  ベッドの上で、獣のような体勢で身体をつなげているのに、二人は微笑み合った。 「いいですよ、俺があんたのつがいになります。……でしたっけ」 「そうだよ。……もう一回、皇輔のつがいになりたい。あ、赤ちゃん、も……欲しい」  さすがに恥ずかしくて、手で顔を隠す。それでも忍は最後まで口を動かした。黙ったままでそばにいるより、想いを伝えてそばにいるほうが、ずっと心穏やかだと知ってしまったから。 「皇輔の、家族になりたい」 「――はい」  起こしていた頭を枕へ落とし、目を閉じる。  うなじに唇が触れると同時に、つながった部分を揺さぶられた。ぞわっと爪先から肌が粟立ち、堪らず鼻にかかった嬌声を上げる。  その声に煽られたのか、男の腰つきが少々激しさを増した。太くずっしりとした雁が内壁をこすりながら行き来する。突き入れられるときは緩んで受け止め、離れていこうとするときは食いしばって引き留める。ただそれだけの繰り返しが、ひどく気持ちよくて先端が再び濡れるのを感じた。 「あ、あうっ、あ」 「忍さんの中、めちゃくちゃ気持ちいいです。忍さんは……?」 「お、おれ、も……っん、きもちいっ」 「よかった。もっと……よくなってください。もう、俺のことしか考えられないくらい……」  だから、これ以上どうやって。  心の中で問いかけたとき、ぐり、と男の切っ先が忍のどこかをえぐり立てた。性器の裏側あたりを目がけて打ちつけられると、吸った息を吐けないほどの愉悦が駆けめぐる。反射的に背を仰け反らせ、パクパクと開いた口からは熱い呼気がこぼれた。 「そ……っこ、そこ、や……何……っ」 「いいでしょ、ここ。俺ので擦ってあげたくて……さっき、指で見つけておいたんです。おかしくなるくらい感じてください、忍さん……俺の大事な忍さん」 「あぁっ……っあ、あうぅ……っひ、んん」  快楽を与えてくれようとするのはいいが、非処女でありながら経験の浅い忍には、そこを愛撫されるのは強烈すぎた。涙がボロボロと目尻から落ち、どうすればいいかわからない悦楽を持て余す。  やめて、の一言も口に出せないまま翻弄される忍は、身体の前にまわった皇輔の右手が乳首をつまんだ途端、ぶるぶると絶頂に昇り詰めていた。 「んぅ――……ッ!」 「すご、キツイ……っはぁ、忍さ、忍……っ」 「あ、あ! や、やらぁっ、あ、今出て……ん、んぅぅっ」  だらだらとシーツに白濁をにじませる最中も、背後から打ちつける皇輔の律動は止まらない。極まってきゅうきゅうとうごめく媚肉をかき分け、抽挿を繰り返す。気まぐれに忍の泣きどころ――前立腺を集中的に叩いては、半泣きの喘ぎを堪能した。 「奥に……一番奥に、出しますよ……全部!」  熱に浮かされた声が、すぐそば、後頭部の辺りから聞こえる。陶然とうなずき返すと、唾液をまとった舌がうなじを舐め上げた。  ああ、ついに、――くる。  その瞬間を悟り、忍は全身から力を抜いた。アルファが、皇輔が貪りやすいよう、全てを委ねる。猛獣に喉を晒して目を閉じるような恐怖の裏には、愛しい牙を突き立ててもらえる恍惚が確かにあった。 「しの、ぶ……さん……っ」  痛いほどの力で腰を固定され、無理やり突き当たりを破ろうとするように怒張が打ちつけられた。アルファにだけ存在する根本のふくらみごとのまされ、声が出ない。  誰も触れたことのない柔く弱々しい最奥に、凶器みたいな先端がぶつかる。ぶるりと震えると、熱い濁流が流れこんできた。 「あいしてる」 「――ッ……」  うなじを、ガブリとかまれた。硬い歯が肉にめりこむと、身体が緊張を帯びる。  十年前、誘発剤で強制的に起こした発情期を利用し、ただかんだだけのつがい契約を思い出す。あれは茶番だった。そう確信するほどの、わけのわからない快楽に襲われる。脳からおかしな成分の物質がドバドバと分泌され、恐ろしい愉悦に放り出され、視界が白く濁っていく。  よく意識を失わずにすんだ、と忍は自分を褒めた。  長い、長い射精だった。皇輔がそうっと後孔から性器を抜くと、それを追うように奥から精液が垂れてくるのがわかる。くすぐったい感触と、彼の種を惜しむオメガの本能が、そこにあった。 「忍さん」  疲れ切って覇気のない声だ。俯せたままぼんやりする忍の隣へ横たわり、汗で肌に張りついた髪を避ける。落とされたキスは優しかった。きっと、愛されているからだ。 「これでもう、俺の忍さんですね」  皇輔が愛しげになぞったうなじの痕は、もう二度と消えない。忍は「そうだね」と言ったが、思いのほか声が出なかった。 「あ、水取ってくるんで、待っててください」  離れていこうとするから、慌てて引き留めた。力の入らない手で腕に触れ、じっと目を見る。それだけで皇輔は留まり、脱力した手を、汗や涙や体液も気にせず握ってくれた。  何も考えず眠ってしまいたいけれど、これだけは言っておかなければいけない。 「おれも、あいしてる、おうすけ」  十年前の忍は想像もしないだろう。  思うままに愛を言葉で差し出せる日がくることを。汚れた手を、愛しげに握ってもらえる日がくることを。
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