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10年前のあの日、運命を決めた
校舎一階の最北端にあるせいか、授業のない五時限目の家庭科室は静まり返っている。
梅雨まっただ中の弱くしつこい雨が湿度を上げるから、風の通りを期待して窓を開けている教室があるのだろう。男性教師の数式を唱える子守歌が、かすかに聞こえてきた。分厚い壁を隔てたようなそれは、子どもじみた疎外感を思い起こさせる。
だけど、忍はさみしくない。
教師に見つからないよう消灯したままの教室は雨雲のせいでいっそう薄暗いが、濃緑色のハンカチを濡らす皇輔が、すぐそばにいてくれるからだ。窓側の調理実習台で、べったりと頬を天板にくっつけて彼をながめる。
どぼどぼと鈍色のシンクが水に殴られて重い音を立てている。しわひとつないハンカチは、躊躇なく含んだ水分を絞られた。
「佐久本さん、起きてください。怪我したとこ拭くんで」
皇輔はハンカチを広げ、隣の角椅子へ腰かける。緩慢に身体を起こす忍を急かすことも、苛立つこともしない。人によっては「睨まれた」と勘違いする眼光で、ただ穏やかに様子を見守ってくれるだけだ。
「葛城くん……教室戻らなくって大丈夫?」
「今さらですね。もう五時間目が始まってから十五分は経ってますよ。寝てました?」
「起きてるもん。なんか葛城くんといると、時計の針がズルした気分になる……早いよ」
皇輔と初めて会ったときは、二人で過ごす時間が自分の癒しになるとは思っていなかった。どのパーツをとっても丁寧に職人が作り上げたような容貌の端正さもあってか、無感情な眼差しも、常に下がり気味の口角も、真新しい制服の下に息づく逞しい体躯だって威圧感があって怖かったくらいだ。
しかし彼は極端に不愛想なだけで、本当は優しくて面倒見がいいから、授業をサボってまで怪我の具合を看てくれたりする。ニコニコと笑いはしないが返事はするし、冗談を言えば冗談を返してくることもある。ほんのときどき、世の中の全てに興味がなさそうに冷めた瞳を細め、微笑む横顔は闇夜に灯したロウソクみたいに温かい。
おかげで忍は一学年先輩だというのに、すっかり彼に甘える癖がついてしまった。
「ところで、なんでこっちの校舎にいたの? すっごいタイミングよく助けてくれたけど」
はあ、と深いため息をこぼされる。
皇輔は指先へハンカチを巻きつけ、擦り傷に血がにじんだ忍の口端を優しく拭った。水で薄まった、彼の匂いがすると安心する。少しでも力をこめたら折れる細いガラス棒を磨くような、丁寧な手つきがくすぐったくて気持ちいい。
「飯食ってたら、渡り廊下で絡まれてる誰かさんが窓から見えたんで」
「あは……申し訳ない。ごちそうさました?」
「しましたよ。あんたは?」
「俺も、ちゃんと食べたよ」
教室で昼食をとったあと、食堂の自販機へジュースを買いに行った帰りだった。一年生の男子生徒に声をかけられたところを見られていたのだろう。迂闊だったが、皇輔が見ていてくれてよかった。
でなければ今ごろ、一方的で望まない性交の餌食になっていたから。
「いっつも変なとこばっか見せてて、ごめんね……」
「あんたが謝ることじゃないでしょ」
「けど……俺も葛城くんみたいに身体が大きかったり、運動神経がよかったら、一人で撃退できたのになあって情けなくってさ」
背だけは平均以上に伸びたものの、忍は友人に「膝カックンで死にそう」と揶揄されるほど線が細い。痩せぎすではないが、とにかく華奢で肉がつかないのだ。肉がつかなければ筋肉も育たず、スラリと手足の長いスタイルは街中を歩けばよくモデルにスカウトされている。
加えて顔立ちは非常に中性的だ。血色のいい唇の左下にある艶ボクロは未完成な性を感じさせ、カラコンなど入れずとも大きなセピア色の瞳にじっと見つめられれば、大抵の人間はおかしな気を起こす、らしい。
匂い立つ艶っぽさは「天性のもの」だから仕方がないとわりきっているが、不思議な魅力に惑わされた血気盛んな男に、今日のように襲われるたび辟易としていた。
だから目の前に皇輔のような理想の体格があれば、羨望の眼差しを注いでしまう。
「お肉いっぱい食べたら、なんとかなる?」
「あんたは胸ヤケするからだめ。ひょろいのは食事の質でも量でもなく、体質です」
「それを言っちゃあ、おしまいよ……」
「ウエイト増やす前に、そのおっとりしたふるまいを直したほうがいいかもしれませんね。正直つけ入りやすいんですよ、あんた」
忍を上級生だと認識はしているだろうが、彼の忍の扱いは先輩後輩よりもっと親しみがあり、そして過保護だ。
皇輔と出会ったのは去年の四月、彼が入学してきてすぐのこと。その日は肌寒く、地面をくすんだ桃色に飾る花びらを、強い風が吹き荒らしていたのを覚えている。
めずらしく風邪気味だった忍は発熱の気配を察し、授業を抜けて保健室へ向かう途中、教育実習生の男に襲われた。押しこまれた教室は無人で、汗ばんだ掌に口を覆われ、冷たいリノリウムの床へ押し倒される。抱いたのは諦念だ。
助けを呼ぶ気力もなく、ただときが過ぎるのを待つ。おとなしく息をひそめていれば、やたらに殴られることはないと知っている。身体を這いまわる湿った手も、興奮しきった呼気も、意識から放り出した。
怖くない。大丈夫、痛くない、悲しくない、大丈夫――。
せめて恐怖をごまかしたくて言い聞かせていると、扉がけたたましい音を立ててスライドし、現れたのが皇輔だった。爛々と目を見開いて息を切らした彼は、忍と目が合うや否や躊躇なく、鮮やかに加害者を蹴り飛ばした。
精神的なストレスに加え、発熱も重なって半ば朦朧としていた忍は安堵で意識を失う。目覚めるまでそばにいてくれた彼とは、保健室で初めて言葉を交わした。
最初は警戒したが、その日から一年以上が経った今では皇輔が精神安定剤だ。心配をかけたくないが、情けないことに抵抗ができないときもある。
日々繰り返す自己嫌悪が、諸悪の根源を責めたくなるのも仕方がなかった。
「二次性なんか、なくなっちゃえばいいのになあ」
それは『男女』とは別の、第二の性のことだ。
あらゆる面において優れた『アルファ』、いわゆる一般人と呼ばれる『ベータ』、特殊な体質を持つ『オメガ』の三種に分類され、忍はオメガだった。
オメガは男も精で子を孕むことができる。三カ月に一度の発情期ではフェロモンを放出し、『ヒート』と呼ばれるアルファの強烈な性衝動を本能レベルで誘ってしまうことから、昔は今と比べものにならないほど迫害され、ひどい性差別を受けていた。オメガ特有の妖しい美しさに価値を見出し、愛玩道具として公然と売買されていた時代もあるのだと授業で習ったときは吐き気がした。
今もアルファを性犯罪者にしかねないせいで肩身は狭く、なんの偏見もなくなったとは言いがたい。
とはいえ二次性に関する研究も進んでいるため、フェロモンを抑えるための優秀な抑制剤が普及している。アルファにだってフェロモンを感じにくくするための抗フェロモン薬がある。
しかし忍は、発情期も薬も関係なく強いフェロモンでアルファを誘ってしまう、特殊なケースだった。誰かの理性をむしりとって望まない行為に走らせてしまう忍は、自身のオメガ性を厭い、罪の意識の中で生きている。
男女というくくりだけの世の中なら、こんな思いをすることはなかった。
「まあ、それは俺も同感ですね」
皇輔はポケットから取り出した絆創膏を開封して、忍の口端へ貼りつけた。
空になったフィルムには、デフォルメされたウサギとにんじん柄がプリントされている。不愛想で硬派な雰囲気の皇輔とはアンバランスで、不覚にも癒されてしまった。
「アルファもオメガも、発情期もヒートもなかったら、もっと生きやすかったでしょうし」
皇輔はアルファの中でも特別な『ハイクラス種』だ。家柄、頭脳、運動神経、容姿――天に二物以上与えられたその存在は、ときに『神の寵児』と揶揄される。
だが彼は自身の二次性をおごるどころか、心底疎ましがっていた。
「アルファって、何様なんでしょうね」
無表情だというのに、刺々しさがにじみ出ている。彼がこういった嫌悪をあらわにするのは、決まって家で揉めたときだ。
「……お家、なんかあった? お父さんと喧嘩した……?」
「いえ。昨日、風呂入ってたら急に発情期のオメガを放りこまれただけです」
「それはまた、つらい……」
次男だが家業を継ぐことが決まっている皇輔は、まだ高校生だというのに父親が仕向けるオメガの発情テロに悩まされていた。
皇輔の家は大型ショッピングセンターやスーパーなど、全国に二千店舗以上展開する『KTグループ』を経営している。アルファは経営者向きの才を持つ者も多く、上流階級では優秀な後継者を育てるため、子どもにオメガをあてがうケースも少なくない。
実際、オメガの子はアルファであるケースが多い。あくまで『多い』程度だが。
「その……大丈夫だった?」
「大丈夫、襲ってませんよ。あんた以外のオメガは嫌いだって言ったでしょ」
「う、うん、けどフェロモンってすっごくいい匂いだって聞いたよ」
「別に、なんもいい匂いじゃないです。くさくて最悪ですよ」
ハイクラス種は、フェロモンに対する反応が顕著だという。薬で抑えきれない忍の匂いは、今も彼の気分を害していることだろう。
「ごめんね、くさいね……」
シャツの胸元を掴み、すん、と嗅いでみる。フェロモン臭はオメガにはわからないが、洗剤の香りに交じって汗の匂いがした。これはこれで申し訳ない。
「香水とかしたらマシになるかも……?」
「いりません。強い匂い苦手だし、あんたはくさくないです。なんか……干したての布団にくるまれてる気分になるんで。それに居場所がわかりやすいから、匂ってくれて俺はありがたいですよ」
水漏れする水道管みたいな欠陥を、皇輔は悪く言うどころか魅力かのように表現してくれる。お世辞だとしてもうれしくて、男のゆるやかにほころんだ口元を指でなぞってみたくなった。
「そっかあ……」
「ハイクラスなんて余計なオプションですけど、遠くにいてもあんたの匂いがわかるのはいいです」
もっとたくさん、彼が自身の性を認めてあげられる何かを差し出したいのに、忍は何も持っていない。
ごめんね、と謝ることもできず、やるせない思いを微笑みの裏へ隠した。
「いつまで続くのかなあ、やなこと」
かさついた皇輔の指が、暴れたときに打ちつけたらしい忍の腕の青痣を撫でた。
「つがいができるまで、でしょうね」
優しい仕草に、心をえぐる言葉。絶望的なまでに虚しかった。
アルファとオメガには『つがい』という婚姻に代わるシステムがある。発情期中のオメガのうなじをアルファがかめば成立し、つがい契約書を役所に提出すれば夫婦と認められ、行政サービスも受けられる。
ただ、その行為にはメリットもデメリットもあるため、昨今はつがいにならないまま通常の婚姻関係を結ぶカップルも増えていた。
「やだなあ、俺、かまれるの怖いよ。アルファの子どもなんて産みたくないし……」
ひとつだけ、嘘を言った。
――皇輔の子ども以外は産みたくない。
これが忍の本音だ。
ピンチを颯爽と救ってくれた仏頂面のヒーローは、あきらめることに慣れた忍の隣に、そっといてくれる。忍があきらめて手離しかけた忍を、ぶっきらぼうに守ってくれる。
感謝が愛しさに変わるまで、それほど時間はかからなかった。
彼のそばで育み、ひた隠しにしている柔い恋だ。オメガ嫌いの皇輔には一生伝えられない。
悲しくなってきて調理台へ伏せると、汗と湿気を含んだ髪に皇輔が指を通す。頭皮をゆっくりと五本の指が撫でていくから、眠りにつく寸前みたいな気持ちよさが吐息をこぼさせた。
「なあに……?」
「俺も嫌です。フェロモンで理性ぶっ飛ばされて、好きでもないオメガに歯型つけまくるなんて、想像しただけでゲロ吐きそうです」
「言い方悪い……」
「なんにせよ、あんたは守りますから」
ポンポンと頭をたたいた手が離れていく。追いかけるように身体を起こす忍の内心は妙にざわついていた。
小賢しい部分が、インモラルな提案をしきりに叫ぶ。いくらなんでもマズいだろう、と不安がる常識的な良心の声は、頼りなくかき消されていった。
そばにある制服の袖をチョンとつまむ。
左胸の奥で、命の核がとんでもない音を鳴らしてもがいていた。
「あ、……のさあ? じゃあさ、俺のつがいになっちゃうとかさ、どう?」
言い終えるのと同時に、教師の声が止む。恐ろしいまでに完璧な静寂が、酸素を食らってしまったかのように息苦しい。
撤回はできない。したくない。めずらしくポカンと目を瞠っている皇輔に、ここまできたら最後まで伝えたかった。
「この間、ニュースで見たんだ。つがいになった兄弟の話……」
「ああ……フェロモンを抑えるためだけにつがいになったって、賛否両論あるやつ」
アルファのつがいになれば、フェロモンは他のアルファを誘わなくなる。見知らぬ誰かの人生を狂わせずにすむ。オメガにとってそれは救いだ。
しかし『兄弟のつがい』は異常視され、世間への撒き餌みたいに取りざたされている。
けれど忍は繰り返し流れるそのニュースを目にするうち、一縷の希望を見出していた。
「うん……あのオメガのお兄さんの気持ち、わかるんだ。信頼できるアルファにかんでもらって、薬飲みながらひっそり生きていけたらなあって」
恋愛結婚や、運命のつがいと呼ばれる遺伝子上もっとも相性のいい相手と出会う未来だって、可能性としてはある。だがそんな低い確率の幸せに期待できるほど忍は楽観的ではなかった。
オメガという二次性を受け入れるしかないなら、せめて自分で、運命を選びたい。
「俺ね、多分いつか、家の決めたアルファに嫁ぐんだ。だけど葛城くんがかんでくれたら、発情期とアルファに怯えなくていいし……嫁がされなくてすむでしょ?」
はたから見れば、滑稽なほど必死だったかもしれない。頭に浮かぶまともそうな理由を、あれもこれもと欲張って並べ立てる。黙って耳を傾けている皇輔が、この提案を魅力的だと感じてくれるように。
「それに葛城くんもオメガとつがえば、発情テロされなくってすむ……でしょ?」
「俺がかんだら、あんた一生、他のアルファとつがえませんよ」
嫌がる素振りも、馬鹿にした様子もなく、皇輔はこんこんと言う。黒々とした強すぎる視線がまっすぐ突き刺さるから、息の根が止まりそうだ。
「わかってる。けど俺、……アルファを好きにはならないよ」
忍の恋は、皇輔に捧げた。彼のもとにこの心を置き去りにして、大人になりたい。
「でもね、葛城くんは俺のアルファにならなくっていい」
平坦だった男の眉間に、貫禄をプラスするようなしわが寄る。自分より年下の高校二年生だとわかっていても、思わず頭を下げてしまいそうになった。
「あんたをつがいにして、難を逃れたら捨てろって? 佐久本さんばかり割を食ってるじゃないですか」
つがい契約のデメリットは、何人でもつがえるアルファと違い、たった一人としかつがえないオメガ側に集中している。
書類上の契約は破棄できても、つがい関係は生涯取り消せない。別れたところで、つがい相手以外のアルファには身体が拒絶反応を起こし、性交も妊娠もしにくくなる。発情期がなくなる五十代まで、いわば生殺しの地獄を味わうのだという。
しかし忍にとっては皇輔のつがいになれるだけで、十分なメリットだった。だがそんなことは言えないから、「それは違うよ」と首を振る。
「俺は今みたいにフェロモンでアルファを誘っちゃわないなら、それでいいんだ。君にとっては今と変わらずくさいだろうけど……発情期だって、ぇ……エッ、チの相手も、しなくっていい。今とおんなじ友人関係で、ご実家にバレないように恋人を作っていいよ。いつか、ちゃんと好きな子ができたときは、その子とつがいになって、俺とは別れたことにしよ。それまでは……なんていうのかなあ、利害の一致? みたいなさあ」
ヘラリと言い終え、背中に冷や汗をかく。やはりさすがに、無茶な提案だっただろうか。
忍の家柄も世間一般的にはいいが、皇輔とは比べものにならないほど格下だ。財産目当て、コネ狙いで近づいてくる人間は山のようにいただろうし、こんな口約束では後々トラブルが起きたとき面倒だと切り捨てられても仕方ない。
少しでも皇輔の表情に渋りが見えたら、即刻笑い飛ばすつもりで唾をのむ――が。
「いいですよ」
「だよねえやっぱ……え?」
「俺があんたのつがいになります」
眉ひとつ動かさないまま、皇輔は調理台に肘をついた。顎を支え、呆ける忍の前髪を指先でよける。
「先月の発情期でつがっておけばよかったですね。襲われる頻度高すぎだから、早いほうがいいけど……二カ月後か。その間どうするか、ですね」
彼は忍の頬へ手を添え、むにっとそこを歪ませて笑った。
「……ふ、すごいポカンとしてる」
なぜ、どうして――どういうことだ?
夢としか思えない乗り気な反応が、胸中を竜巻のような動揺で荒らしていく。
いいの? と訊ねたくなるが、戸惑う良心ごと黙らせた。理由なんかいい。どうでもいい。余計なことを口走って、冷静になった皇輔が「やっぱりやめましょう」と言い出したら、初恋にひたむきな純情が泣いてしまう。
「俺も早いほうがいいなって思う……から、誘発剤打つのはどう……?」
「そ、……は? 誘発剤なんて簡単に手に入らないでしょ」
「持ってるよ、俺」
「………なんでです?」
「家に出入りしてた一番目のお医者さんがくれたんだ。えっと……『早くいいアルファとつがって家を出たくなったら使いなさい』って、こっそり」
その医者はすぐ解雇されたようだが、今ならわかる。忍を幼少期から知っている年老いた医者は、オメガ性が発覚して『隔離』された忍を助けたかったのだ。
「……オーケー。わかりました。じゃあそれでいきましょう」
「うん。あ、すぐに特効薬打つから心配しないでね」
いくらその気がないとはいえ、発情期のオメガを前にヒートにならないアルファはいない。抑えきれない興奮で忍を襲ってしまったとして、忍はうれしいが、彼が後悔するのは目に見えている。
だが皇輔はゆるりとかぶりを振った。
「立て続けに打つなんて無茶です。特効薬は俺が自分に打つんで、あんたは逃げること優先したほうがいい」
「だっ、でも、そしたら葛城くんが」
「そんくらいの苦しみは分けてもらいますよ。俺ら、つがいになるんでしょ」
大嫌いなオメガである忍に、ここまで心を許してくれている。この信頼だけは壊さない。彼にオメガを襲わせない。心に決めて、うなずき返す。
「俺……ちゃんと葛城くんのこと守るから」
「俺もです。ちなみに大学卒業したら夫婦として一緒に暮らしてもらいますけど、大丈夫ですね?」
「えっ」
「別居じゃ発情テロが終わらないかもしれないんで。同棲前も、つがいとして不自由はさせませんから安心してください」
夢、みたいな言葉が、星の欠片のように降り注いでいる。皇輔の親指がまつ毛の感触を確かめるように目元を這った。まぶたを閉じて、言われた内容を咀嚼する。
大きな、大きな風船から伸びた綱を身体にぐるぐる巻きつけて、風の吹くままどこかへ飛ばされているかのようだ。座っているのに立っているような、動いていないのに飛び跳ねているような――とどのつまり忍は、異常なほど舞い上がっている。
「俺と……オメガと生活するの、やじゃないの」
「嫌だったら、かんでもいいですよ、とは言わないでしょ」
「そ、だね、うん。……あ、だめ、俺がいたら、葛城くんが恋人作りにくくなっちゃう……どうしよ」
そんな存在を作らないでほしいけれど、胸に灯るわがままなんて、彼のオメガになれるならば無視できる。大切な皇輔の時間を、少し分けてもらえるのだから。
そのぶん、皇輔の幸せは全力で応援したい。
「近くに住むとかじゃ無理かなあ? 俺、葛城くんと恋人さんを邪魔したくないよ」
解決の糸口はないか、頭のいい皇輔にも知恵を借りたい。彼は数秒ほど沈黙し、やがて一往復だけ首を振った。
「無理です。学ぶことが多いので、色恋にかまける気はありませんし、第一身内に別居してるってバレたときが面倒ですよ」
「それもそう……困ったなあ……」
「そんなことより」
話題を捨てるように皇輔が立ち上がる。
「どこで誘発剤打ちます? ホテルでいい?」
「あ、えと、うちでもいい? 離れに一人で住んでるから、誰も近づかないし……」
「わかりました。……怖くない?」
分厚い雲、止まない雨、薄暗くてじめっぽい家庭科室。
垢ぬけない景色の中、差し出される無骨な手は、握ると思いのほか冷えていた。
「うん、――怖くないよ」
皇輔と二人、連れ立って授業中の学校から抜け出した。人目をかいくぐるように雨に隠れ、まるで逃避行のようだ。下駄箱で皇輔が引っつかんだ一本の傘の下、肩を寄せ合う。
二次性なんか、なくなればいい。だけど二次性があるから、忍は皇輔の所有物になれる。
いくら空が曇天だろうと、雨脚が強まろうと――思うままに、愛してると言葉で伝えられなくともかまわない。
今日はオメガとして最高の日になる。
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