偽りの夫婦、幸福な10年

1/1
前へ
/9ページ
次へ

偽りの夫婦、幸福な10年

 しゅうしゅうと騒いでいた電気ケトルが自動で止まる。中からは余熱でポコポコと沸騰する湯の音がして、ふたを一度開けた。 「皇輔~、珈琲そろそろ淹れるよー?」  白い湯気が立ちのぼり、あらかた消えるのを待ちながら声を張り上げる。ただでさえ猫舌な皇輔が朝っぱらから舌を火傷しないよう、少し熱を逃がしておかなければいけない。  気に入りの専門店でブレンドしてもらった粗挽き珈琲をドリップメーカーにセットし、少量の湯を垂らす。蒸らす最中の香ばしい匂いが、白を基調としたオープンキッチンとリビングダイニングへ漂い始めた。  南向きの大きな窓から差しこむ朝陽が室内を明るく彩れば、シンプルに重きを置いたインテリアの部屋はいっそうさわやかだ。  チン、と軽快な音を立てたトースターの中を確認すると、食パンが二枚、いい感じのキツネ色へと変貌している。片方に乗せたスライスチーズもとろりと溶けて、このままかぶりついても美味しそうだ。  チーズの乗っていないほうのトーストに粒マスタード入りマヨネーズを薄く塗り、準備していたベーコンとレタス、スライストマト、それから厚焼き玉子をはさんで、持ちやすく食べやすいサイズにカットする。 「皇輔ー?」  片手間に二度目の呼びかけをしたところで、皇輔の部屋の扉が開いた。  ぼんやりと目をこする男は、寝乱れた紺色のパジャマを直しもせず、のっそのっそと冬眠明けの熊みたいにキッチンへやってくる。 「おはようございます、忍さん……」 「ん、おはよお」 「いい匂い……」  すぐ隣に立って、すんすんと匂いを嗅ぐ皇輔は、朝だけ普段より幼く見える。  彼とつがいになる前――高校生の忍が知らなかった一面だ。 「朝ごはんも珈琲も、すぐできるよ」  何回かに分けて湯を足し、フィルターから落ちるコーヒーも溜まってきている。クッキングシートを敷いた皿にホットサンドを盛りつけ、水気を切っておいた野菜をサラダボウルへ入れた。へたを取ったプチトマトを三つ乗せ、おどけてひとつを皇輔の口元へ差し出してみる。 「食べる?」 「食べる……」  ぱくんとトマトを頬張った唇が忍の指先を軽く食んだ。柔らかな感触に驚くと、眠たげだった彼も一瞬目を瞠り、「すいません」と離れる。すっかり眠気も覚めたのだろう、そそくさと洗面所へ向かってしまう。  うとうとと陽だまりの中心にいるような声を聞いていたかったが、残念だ。  ――高校時代につがい契約を結んで十年、彼が大学を卒業して一緒に暮らし始めてからは五年になる。  学生時代からいい男だったが、皇輔の成長ぶりは目覚ましい。いずれ本社を背負うためにKTグループの中枢を担う子会社に就職した彼は、超実力主義の営業部内で成績トップの主任を去年初めて抜いてから、一度としてその座を下りていない。「親の七光り」などと囁かれていた捻りのない陰口は、しっかり仕事で黙らせたのだと笑っていた。  大人になった体つきは以前より逞しく、少年らしさを脱ぎ捨てた容姿は精悍さを増して、イケメンというより男前と言ったほうがしっくりくる。  毎朝、毎夜、顔を見るたび、言葉を交わすたび、実感して感動する。この男が今もまだ自分のつがいなのだと思うと、忍はいつだって有頂天のその上へと気持ちごと身体ごと飛んでいってしまいそうだった。  ダイニングテーブルへ朝食を並べ、調理器具を洗い始めたところで皇輔が戻ってくる。  いつものようにまっすぐ自室へ向かい、しばらくしてダイニングへ現れた彼は、青みがかったグレーのジャケットとネイビーのネクタイを手に、ワイシャツとジレ、パンツを着こんでいた。ひょこんと跳ねていた寝癖もおとなしくなっている。整髪剤で整えた黒髪は艶やかで、刈り上げた襟足は遊び心があっていい。  今日も惚れ惚れするほど格好よくて見惚れてしまう。熱視線に気づかない男は、欠伸を押し殺す姿もチャーミングだ。 「お腹空きました」 「はいどーぞ。新聞いる?」 「あとで読みます」  朝食から視線を離さないまま言って、皇輔は椅子に腰かけて早速食べ始めた。ホットサンドを一口頬張って、思い出したようにキッチンを向くと「いただきます」と付け足す。そんなに急いで食べなくとも誰も横取りしないが、大きな男とは思えないほど可愛いから忍は笑っただけだった。  仮初の夫婦として一緒に暮らすにあたり、二人は様々な決めごとをつくった。  たとえば、家事はもっぱら忍の担当。会社勤めで残業も多い皇輔より、在宅時間の多いフリーライターの忍のほうが適任だからだ。  その代わり、月々の光熱費は皇輔が持つことになっている。もちろん家賃やその他の生活費は綺麗に折半だ。  ほかにも『ボロが出ないよう名前で呼び合う』など細々としたルールはあるが、一番気をつけているのは『友人としての距離を保つ』だろう。先ほど皇輔が謝って離れたのも、それが理由だ。  二人はつがいだが、恋人でも、夫婦でもない。身体の関係はおろか、手すら繋いだことはない。だけど忍はこの十年、幸せじゃない日が一日だってなかった。 「皇輔、美味し?」  頬いっぱいにホットサンドを詰めこんだハムスターみたいな皇輔が、大きくうなずく。 「んまいです。忍さん食べないんですか」 「俺はあとで食べようかなあって」 「食欲ないですか? 顔がちょっと赤いですけど、風邪ですかね」 「ちょっと暑いだけ。俺が滅多に風邪ひかないの、知ってるでしょ」  天気がいいせいか、十月中旬の朝にしては身体が熱をもっている。洗い物をする手が水に浸かって心地いい。  それも終わって手を拭いていると、皇輔が食事を中断してキッチンにやってきた。忍の額にそっと手を当てる。ドキリと跳ねた心臓のぬか喜びを隠すのは、もはやお手のものだ。 「熱、あった?」 「ないです……けど、あんまり無理しないでください。掃除なんか毎日しなくていいし、飯だって俺が買って帰りますから」 「心配性だなあ」 「今さらですよ。あと、いつも言ってますけど薄着すぎます。カーディガン羽織ってれば大丈夫って考え方、そろそろ直してくださいね。ゆるっとした感じ、似合ってますけど」 「はあい。ありがと、しんどくなったら色々お願いするね」  華奢で性別不詳だった忍の見た目は、この十年でそれなりに成人男性へと路線変更した。肉と筋肉の育成については早々に見切りをつけたが、顔立ちは成長するにつれて、中性的だけど男性だとわかるようになった。  今はチョコレート色のふわふわな髪を結っていても、ピアスをしていても、女性と間違えられることはない。だがそのぶん、高校時代より格段に可愛らしさはなくなっただろう。  そんな忍を変わらず心配し、気遣ってくれる皇輔の心の広さと優しさたるや、全人類が見習うべきだ。  額から離れていった手をひっそり惜しんでいると、テーブルへ戻る途中の皇輔がふと振り向いた。すん、と鼻を鳴らし、不思議そうに小首を傾げる。 「洗剤変えました?」 「すごいねえ、わかる?」 「いつもと違う匂いがしました。俺、これ好きです」  いつも使っている無香料の食器用洗剤が売り切れていて、昨日は仕方なく柑橘系の香りがするものを買った。昔から嗅覚がするどい皇輔のために無香料か微香にこだわっていたが、好きな香りならば今後も同じものを使ってもいい。 「そっかあ。ならよかった」 「ええ、甘い匂いがして落ちつきます。……あ、時間ヤバい」  食事を再開させる姿を横目に、「どっちかっていうと酸っぱい匂いがするけどなあ」と、皇輔の不思議な感覚を微笑ましく笑った。  出勤する皇輔を見送り、食事をとったあとは朝の掃除だ。行儀のいい彼がきちんと裏返して洗濯カゴに入れてくれている洗濯ものを、自分のと一緒に色柄ものを仕分けして洗濯機へ放りこんでいく。  鮮明だった視界がぼやけて濁るように、意識が欲求に絡めとられたのはそのときだ。  右手に持っているのは、皇輔がさっき脱いだばかりの紺色のパジャマだ。左手には昨日、皇輔が一日着ていた白いワイシャツ。甘みを帯びた体臭の残り香が、油断していた忍の鼻腔を犯した。  抗えない衝動が気をゆるませ、理性をつつきまわす。嗅げ、嗅げ、これでお前の身を隠せ――この世でもっとも安全な匂いの中に包まれてしまえ、と。  握った服から目が逸らせなくて、呼吸が浅くなっていく。脳内で「正気になれ」と繰り返して自戒する忍は、ゴクリと唾をのみ――。 「……っぶなあ……!」  ふうふうと戦いのあとみたいに息を荒げ、両手にある服をドラム内へ押しこんだ。残りの服も急いで放り入れ、扉を閉めて遮断する。  腔内にあふれた唾液をのみ下すと、無視できない飢餓感に気づいた。 「巣作り衝動こわあ……そろそろ発情期だもんなあ……」  ふらりと立ち上がり、皇輔の部屋とはリビングダイニングを挟んで向かい側にある自室へ戻る。南側にベッド、北側に本棚、東の壁に沿って設置されたワークデスク、それ以外の大物家具がない殺風景な部屋だ。皇輔にはいつも「生活感なさすぎませんか」と渋い顔をされるが、仕事と就寝以外の時間をリビングですごす忍は妥当だと思っている。  少ない私物は全てクローゼットに収まっているが、使用頻度の高いものはベッドサイドのスリム型チェストにしまっていた。一番上の引き出しを開け、雑多に詰まったものをのぞきこんで顎を揉む。  そこにあるのはオメガ用の抑制剤だ。病院から処方されたものが数袋、ネットで購入した市販薬が数種類、数箱。念のため隠し持っている特効薬の注射は三本ある。  発情期に突入したら忍は薬を服用しない。  抑制剤を使用する目的はただひとつ、皇輔にフェロモン臭を嗅がせないためだからだ。  取材で家を空けることも多い忍は、発情期も仕事と称して実家の離れへこもる。皇輔にさえ影響がないなら薬は必要ないし、服用しない分はいざというときのために保管しておける。  もっとも抑制剤がいるのは発情期前後――つまり今だ。病院から処方される薬は効果が弱いから、市販薬を手に取る。思ったより少ない残数を確認し、六錠かみ砕いた。  抑制剤の乱用による依存症と副作用が問題視され始めてから、病院の処方でしか薬は手に入らなくなった。だから忍は海外で認可の下りている市販薬を、ネット購入することでなんとか数を揃えている。  幸い、あれほど垂れ流していたフェロモンはつがいができた途端に治まり、薬も効くようになった。体質的に薬剤に強いのか、副作用や依存症の類もない。さすがに皇輔も発情期に家を空けているのは気づいているだろうが、何も言われたことはない。  普段から多めに薬をのんでおけば、距離を保ってうまくやれることを覚えてしまった。 「うえぇ、まず……」  苦く不快感の残る舌をべっと出し、羽織ったカーディガンを嗅いでみた。皇輔の嫌がるフェロモン臭が出ていないことを、ひたすらに祈っている。  つがいとして愛されたい、などと分不相応な願いは持っていない。今までもこれから先も、忍は彼の友人であり、仲間で、共犯者であり続けたかった。  いつか皇輔に愛する人ができるまで、一秒でも長くそばにいられたら、それで十分だ。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3177人が本棚に入れています
本棚に追加