ひとときの休息、フルーツとシフォン

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ひとときの休息、フルーツとシフォン

 今回の発情期も実家の離れで乗り切った忍は、八日ぶりの自宅へ帰ってきた。  取材という言い訳を使うため、偽装工作がてら地方の銘酒を通販で購入してある。それをキッチンへ置くと、まずは洗濯に取りかかった。  自分で確かめようのない香りに怯えるのもあほらしいが、汚れものにフェロモン臭が移っている可能性がある。皇輔との平穏無事な生活のためなら、神経質なくらいでちょうどいい。  上着のポケットに突っこんだままの携帯が着信音を鳴らす。癒しのハープ音が眠りを促すようなそれは皇輔専用だ。  日中に電話をかけてくることは稀で、忍はうれしさを隠せない。 「はあい! どしたの、なんかあった?」 『ずいぶんご機嫌ですね。いいことありました?』 「えっと……お腹がいっぱいだからかも」  本当は「皇輔の声が聞けたから」の一言ですむが、恥ずかしいし、あからさまな甘い感情が知られてしまう。咄嗟の言い訳は程度が低いが、皇輔は特に気にした様子もない。 『それはよかった。ところで忍さん、もう家に帰ってます?』 「うん、さっき帰ってきたよ。ただいまあ」 『おかえりなさい。あの……すみません、頼みごとがあるんですけど』  ――皇輔が、俺に、頼みごと?  忍は意気揚々と、「なんでも言って!」と返した。  紐で綴じたA4サイズの茶封筒を大事にバッグへ詰めた忍は、「外出は極力車で」と皇輔に言い聞かせられているため、自家用車を走らせてオフィス街へとやってきた。  大小様々なビルが乱立する中、鏡張りのビルを見上げる。周囲にも似たようなビルはあるが、頭ひとつ分高いせいでこの一角の中心地のように見えた。  ここはKTグループの主たるスーパーマーケット事業を運営する中枢企業、KTトータルマネジメント(株)。皇輔の勤務先だ。ゆくゆくはこのビルどころかグループごと背負うというのだから、忍の想像できる規模の範疇を超えている。こうして会社を見上げていると、「葛城」の姓をいっときでも名乗るのが申し訳なくなる。 「忍さん」  正面玄関を見ると、皇輔が足早にこちらへ向かってきた。  ジャケットを脱いでシャツを肘までまくり上げているため、腕に浮かんだ太い血管に目がいく。ダークグレイのジレを内側から張らせる胸板の厚さも、動きに合わせてスラックスに寄るしわまで格好いい。  握手会会場やライブに足を運ぶアイドルのファン心理とは、こういうものだろうか。発情期中は皇輔の写真を携帯で摂取していたけれど、生身の皇輔に勝るものはない。たった八日会えなかっただけで、生き別れの恋人に再会したような喜びと切なさが込み上げる。  彼は目の前までくると、うれしさを堪える忍の全身へ視線をゆっくり走らせた。 「あんたね、またそんな薄着で……」  黒いVネックのロンティーにスキニージーンズ、アウターは皇輔が三年前の誕生日にくれたオフホワイトのドルマンスリーブカーディガンだ。大きな網目のそれはハイブランド品でかなり着心地がよく、まだ毛羽立ちもしていない。大切に手入れしている、忍の一番のお気に入りだった。  十月の気候であれば、これくらい軽装でも問題ない。重ね着や首元をしめつけられる服装は苦手だ。 「あったかいよ、皇輔がくれたカーディガン」 「もう何年も着てるでしょ。来年の冬は別のアウターを贈ります」 「んーん、これがいい。そうだ、これで合ってるかなあ?」  話題を変えるために茶封筒を取り出す。  手渡すと、無表情がかすかに安堵を宿した。 「ええ、これです。すみません、帰ったばかりなのにお使いを頼んでしまって」  彼からの電話は、今日の会議で使う大事な書類を自宅へ置いて出てきてしまった、というものだった。取りに戻るには往復の時間が足りず、他のもので代用もできないときた。  嬉々として家を出た忍は、たとえ行き先が北海道でも喜んで使われただろう。 「いいよお、たまには役に立ててよかった。いつでも言ってね」  家事をこなすくらいしか役に立てたためしがないため、抑揚のない「ありがとうございます」に満面の笑みを返す。  ところが皇輔はそのすぐあと、受け取った封筒で忍の頭をぺこんと叩いた。 「たまにはじゃないです。忍さんがいてくれて助かってるし、俺だって役に立ちたいって思ってます。いつもありがとうございます」 「う、うん? うん、どういたしまして……俺もありがとって、思ってます」 「どういたしまして」  封筒で叩いたところを、今度は大きな手が撫でる。温もりと重みにドキドキと胸を高鳴らせる忍は、「今から時間あります?」と問われて顔を上げた。 「うん、あるよ、帰るだけだから」 「なら少し、俺に忍さんの時間をください」 「あ、はい、どぞ」  両手に乗せた何かを差し出すような仕草を返せば、皇輔がくっくっと肩を震わせて笑う。 「用件も訊かないんですね。そういうところ、昔から変わらないです」 「ごめん、成長してないのかも……」 「違います。俺を昔から信頼してくれてるってことでしょ。じゃあ、行きましょっか」  靴底に張りついたガムのように甘えている自覚がある忍は、「ものは言い方だなあ」と感心しつつ、きびすを返す皇輔に続いた。吸いこまれるように会社の自動扉をくぐって、初めて彼の勤務先に足を踏み入れる。  広々としたエントランスを突っ切る最中、社員が行き交うフロアを興味津々に見まわす忍は、突然皇輔に肩を抱かれた。 「よそ見してると危ないですよ」  たしなめられると同時に、すぐそばを携帯で通話しながら歩く社員がすぎ去った。 「ごめん……ありがと。どこ行くの?」 「うちの会社のカフェです。本当はテラス席へ案内したいんですけど、今はそういう季節じゃないんで、またいずれ。今日のお礼にご馳走したく……」  急に言葉を切った皇輔が、じっと忍を見つめてくる。しかし特に何も言わないまま、すいと目をそらし、抱いていた肩を離した。  すれ違う同僚の声かけへ気さくに応えると、茶封筒を軽く持ち上げる。 「オフィスに置いてくるので、中で待っててもらえますか。すぐ戻ります」 「ん、わかった」  こぢんまりとしたカフェ前で別れ、皇輔が急ぎ足でエレベーターホールへ消えていく。  カフェに入るとすぐ右手にカウンターがあり、ウエイトレスが立っていた。ここでオーダーし、番号札を受け取って席で待てばいいようだ。  一人で先に優雅な時間を過ごすのもな、と注文をあとまわしにさせてもらい、昼休み後でガランとしたカフェの奥に向かう。  ビルの裏手へ続く扉の向こうには、テラス席と中庭がある。面する壁は全てがよく磨かれたガラス壁になっており、どこに座っても景観がよさそうだ。一番中庭を見渡しやすい窓際の、二人がけのテーブルに腰かける。  中庭の中央には、太くしっかりとした桜の木が植わっていた。春になればそれはそれは美しい花弁を咲かせ、幻想的に散らせるだろう。手入れの行き届いた芝生に敷物を敷いて転がれば、さぞかし穏やかな時間を過ごせそうだ。今はくすんだ色に紅葉しているのも、秋を感じられてとてもいい。 「ただいま、忍さん」  ぼんやりと桜をながめている忍の向かいに、皇輔が戻ってきて腰かけた。すでに注文をすませたようで、『1』と書かれたプラスチックの番号札をテーブルの端に置く。 「何を真剣に見てたんですか?」 「あの桜だよ。すごく大きいね。立派で……春もとっても綺麗なんだろうなあ」 「そうですね、毎年あの木の周辺でなんちゃって花見をする集団が現れるくらいには」 「ここの社員さんは仲良しなんだねえ。楽しかった?」 「俺はしませんよ。忍さんともしたことないのに、同僚とやるわけないじゃないですか」  皇輔は拗ねた子どもみたいに肩をすくめている。忍に操を立てなくていいのに、偽りとしてでもつがいを大事にしてくれるいい男だ。 「そっかあ。じゃあ、俺も注文してくるね」 「もう頼みましたよ。忍さんの欲しいものなら、訊かなくてもわかりますし」 「そなの? ごめん、ありがとね。レシートは?」 「お礼にご馳走するって言ったでしょ」  ちょっとばかしの呆れ顔は、いつもすぐに優しい微笑みが混じる。皇輔だなあ、とくふくふ幸せ気分に浸っていると、ウエイトレスが静かにやってきた。 「お待たせしました」  忍の前に並べられたのはブレンド珈琲と、ふっくら大きめサイズのシフォンケーキだった。いちごやオレンジ、バナナやキウイに桃といったフルーツと、バニラアイスがミントと一緒に添えられ、ワンプレートに幸せが盛りつけられている。忍は甘い洋菓子が好きだが、生クリームはすぐに胸やけを起こすため、この組み合わせは非常にうれしかった。  ごゆっくり、と言ってくれたウエイトレスに会釈を返すと、チラリと皇輔を確かめる。 「これ……俺が食べていいの?」 「もちろん。どうぞ」  心なしか目を細めた男に促され、「いただきます」と手を合わせて柔らかなシフォンにフォークを沈める。一口サイズに切ってアイスとともに頬張ると、控えめな甘さと冷たさが忍をたまらず笑顔にさせた。 「んー……! これ、紅茶のシフォンだよ、美味しい、いい匂い!」 「忍さんのおねだりとあらば、毎日買って帰りますけど」 「だめー、俺すぐ太っちゃいそう」 「別にいいですよ、痩せていようが太っていようが、あんたが健康でニコニコしてれば」  あっけらかんと言われて苦笑する。まがりなりにも御曹司のつがいなのだから見た目にも気をつけろ、と言われたほうがやりやすい。  まるで「興味ないので」と払われたような気がして、少しさみしかった。  話題を流すために珈琲を飲み、ほっと息を吐く。鼻から抜けていく香ばしい匂いは苦味も酸味もちょうどよく、癖になるさわやかさがあった。 「珈琲も美味しい……」 「でしょ」  甘いものが得意でない皇輔は、同じくブレンド珈琲を片手に、ただ忍を見ている。人が食べる姿を見ているだけじゃ退屈だろうし、時間は大丈夫なのだろうか。 「えっと、あのさ、ごめんね時間取らせて。俺は一人で大丈夫だから、気にしないでお仕事戻ってね」 「遠慮しないで。俺は休憩中ですから」 「じゃあ、なおのこと休憩しに行かないと!」 「……? してるでしょ、今」  不思議そうに言った皇輔が、テーブルへ行儀悪く肘をつく。顎を支えて頭を傾け、まるで昼寝する猫の親子を見守るような表情だ。 「忍さんをながめるっていう、贅沢な休憩してますね」 「えー……それは……楽しいの?」 「楽しいです。口いっぱいにケーキ詰めこんでもぐもぐしてたり、珈琲飲んでほわっと目元がゆるんだりするので飽きないし」 「結構恥ずかしいんだけど……」 「いいじゃないですか。一週間ぶりなんですから、これくらい」  それを言われると、返す言葉がなくなる。  家事ひとつにしたって、一週間ぶりに帰宅しても自宅は綺麗だった。毎度のことだが、皇輔が掃除をしてくれている証拠だ。 「ごめんね、いっつも家を空けて負担増やしちゃって……」 「たいしたことないです。なんなら家事は分担でって言ってるはずなんですけど」 「や、それはだめ。時間に余裕ある俺がするべき。そこは気にしなくていいの」 「忍さんだって締め切り重なってるときは遅くまで仕事してるでしょ」 「自宅仕事だもん、できるときにやってるだけ。終わり、はい、この話は終わり!」  幾度となく同居ルールを整えるときに交わした押し問答だ。皇輔が「強情」と聞こえるように言うから、忍も「しつこい」と笑みのまま返す。久しぶりのやり取りにクスッと笑ってしまった。 「なんか懐かしいねえ」 「そうですね。同棲し始めて……そろそろ五年ですか」 「そだよ~。毎日楽しいよ、俺。自分がオメガだってわかったときは、こんな普通の生活ができるとは思ってなかったもん」  きっと会ったことも話したこともないアルファに、言われるまま嫁いで子どもを産み、育てあげて特に目標もなく生を浪費し、一生を終えるのだろうと思っていた。世間一般のオメガはもう少し自由があるだろうが、忍の生まれ育った家はたった一人のオメガにそこまで甘くはない。  葛城家に嫁ぐ、と話したときは姻戚になれたことを喜んでいたけれど。 「俺も幸せですよ。あんたのおかげで」  皇輔もつがいを得て以降はオメガの発情テロを仕掛けられなくなった。「子どもが産まれたらそれでいいんでしょうね」と、吐き捨てる横顔には失望が浮かんでいたように思う。  今となっては高校生の分際でなんと無謀な選択をしたのだろうと呆れるが、結果として二人分の人生が少し気楽なものへ変わったからいい。皇輔は子どもを儲けなければいけないから、忍がそばにいられるタイムリミットはそれほど遠くないが。  チクンと痛んだ胸を直視したくなくて、ゆっくりと珈琲を飲む。すると皇輔は思ってもみないことを言い出した。 「旅行でも行きます?」 「え?」  事件も推理も飛ばして、いきなり犯人を名指しするとんちんかんなサスペンスくらい唐突だ。皇輔は真面目な顔で腕を組む。 「俺たち、二人で旅行したことないじゃないですか。新婚旅行も、なんだかんだで行きませんでしたし」  当時、両家からは新婚旅行の話題も当然出された。皇輔は「せっかくだから行きましょう」と言ってくれたが、彼がいつか大切な人と婚姻関係を結ぶとき、新婚旅行まで二回目だなんて事態を避けたくて断り続けた。  皇輔の最初のつがいという、たった一人しかなれない存在にしてもらえたのだから、他の初めてを奪うわけにはいかない。同様の理由で結婚式ものらりくらりと交わし続け、こちらは数年前にようやく両家ともにあきらめてくれたところだ。 「旅行……」 「だめですか? つがいになる前はフェロモンがあるからって一緒に遊びに行けなかったし、つがいになったあとは、忍さんは進学するって決めて勉強で忙しかったし、俺は俺で親父の仕事に連れまわされて忙しかったし……俺ら、全然二人で出かけてないんですよ。知ってます?」 「えぁ、うん、そうだけど……」 「それに今も忙しいからって、俺を放置してばかりですし?」 「や、えと、放置してるつもりは……ないんだよ?」  未来の皇輔の恋人に申し訳なくて、誘いに乗れなかったのは事実だ。デパ地下の食品売り場は一緒に行けても、最上階の映画館には行けない。まるでデートみたいだからだ。  もちろん、旅行なんて罪悪感でとてもうなずけない。 「そういうのは……ちょっと、えっと、一緒に行く理由もないし……」 「忍さん、実は俺、言ってなかったことあるんですけど」  しどろもどろに断る忍は、神妙な面持ちの皇輔を見て身を乗り出した。 「……どしたの?」  彼は凛々しい眉をしかめ、テーブルに寄って忍との距離を詰める。 「出勤途中に駅で転んだおじいさんを介抱したら、商店街の福引券を礼だって渡されたんです。ふと思い出して引きに行ったら……一等の旅行券が当たったんです」 「っえ、そんなことあるの……!?」 「ええ。俺もビックリです。それでね? ペア旅行券を忍さんと使わなかったら、あとで身内にバレたとき何を言われるか……」  すっと伸びたまつ毛が、皇輔の頬をかげらせる。確かに万が一のとき責められるのは皇輔だ。ややこしいことになりかねない。 「お願いです、一緒に来てくれませんか? 福引券をくれたおじいさんの好意も無駄にはしたくないんです」 「う……」  おじいさんの気持ち、皇輔の気持ち、景品を準備した商店街の人の気持ちを考える。忍がうなずけば、全て丸く収まるのは明らかだ。 「そういうことなら……俺でごめんけど一緒に行かせてもらいたいな」 「っし」 「え?」 「いえ、何も」  安堵の表情で目を細めた皇輔は、珈琲を飲んで咳払いする。 「日程は改めてお知らせしますね。まとまった休みをとりたいので、多分来年になるとは思いますが……」 「へえ、福引きの景品なのに期限長いんだね」 「そうなんですよ、太っ腹ですね。ところで、どこか行きたいところあります?」 「んーん、ない、ないけど……あ、温泉かなあ。露天風呂……」 「それだけですか? もっとないですか?」  皇輔とだったら近所のスーパー銭湯で十分にうれしいから、他の望みは思い浮かばない。 「ない……」 「忍さんらしいですね。無欲で」 「俺は欲張りだよ、すごく」 「何言ってんですか、わがままのひとつも言ったことない人が。あんたが欲張りなら、俺は強欲の罪で何回処刑されてるか」  とっつきにくい無表情とは裏腹に、正義感が強く、行動力と思いやりを併せ持っている皇輔こそ無欲だ。忍は彼が自分勝手にふるまう姿を一度も見たことがない。  しかし強く否定して「俺のほうが強欲だよ」と自分を引き合いに出し、利害の一致を餌につがいの立場を得たひそかな邪心を知られたくはない。  自分を守るために口をつぐむ忍は小賢しくて、やはり彼には不釣り合いだ。 「まあ、あんたらしいですけどね。じゃあ行き先は俺が決めるんで、楽しみにしてて」 「うん、ありがと」  大きくうなずき、残りのケーキを平らげる。 「オースケ!」  と、片言感のある溌剌とした声がカフェの空気を変えたのは「ごちそうさまあ」と手を合わせたときだった。  カフェの入口から近づいてくるブロンドヘアの白人男性が、陽気にウインクする。 「長い手洗いかと思えば、優雅にブレイクタイムかい? 素敵だねえ、実にいい」 「ディック……どうした?」  皇輔も惚れ惚れする体格をしているが、男性はそれよりもがっしりとしている。テーブルのそばへ立つと威圧感がすごい。 「いやあ、オフィスでオースケがカフェにいたと聞いてね」  ディック、と呼ばれた男性は、人畜無害そうな笑みを忍へ向ける。  紹介してくれようとしたのか、口を開きかけた皇輔を手で制したかと思えば、今度はまるで貴族のように自身の胸元へそれを添えた。 「はじめまして、ニューヨーク支社から来ました、リチャードです。気軽にディック、と呼んでほしい。あなたは? キュートな人」  流れるような仕草で手を差し出され、忍は慌てて席を立った。 「はじめまして、葛城のつがいの忍です。よろしく、ミスターディック」  握手した手を引かれ、少しかがんだディックとチークキスをする。 「、っ?」  そのとき、ドクン、と不整脈みたいに鼓動が乱れ、わずかな不快感を覚えた。  経験がないためはっきりわからないが、これがつがい持ちのオメガが起こす、他のアルファへの拒絶反応かもしれない。彼がアルファかどうかは知らないが、立ちふるまいからにじみ出るアルファ感があるのは間違いない。  触れた頬を離し、無意識に距離を取ろうと身体が動く。 「……あの?」  しかし握手している手は離れる気配を見せない。色男は忍の顔をじっと見つめ、恍惚とため息をついた。 「君がシノブなんだね。噂は聞いているよ」 「噂、ですか」 「そうさ。俺のつがいは世界で一番綺麗だし、ちょっと豪快な料理はミシュランガイドに載っているどの店より美味しい、何をしていても天使だ、とね」  ディックは横目に皇輔を見る。身内がいる場面などではそうやって褒めちぎってくれるから、社内で人の目を気にしておしどりつがいを装ってくれているのは想像がついた。  忍も便乗すべく、袖で口元を隠して笑う。 「うれしいです、照れちゃいますけど」  視界の端で膝を小刻みに揺らしていた皇輔が、頃合いを見てディックに声をかける。 「ディックもういいだろ。忍さんから離れて」 「ああ、名残惜しいね……ときにシノブ、君は神様の電話番号を知っているかい?」 「え……と、知りません、ごめんなさい」  手が離れないことより、皇輔が無表情のまま眉間にしわを寄せているのが気になる。  いつしか忍の両手をしっかり握りこんでいるディックは、思いのほか近い距離で、長いまつ毛を上下させた。ネイビーに縁取られた涼やかなブルーの瞳なのに、いやに熱っぽい。触れたら火傷しそうだ。 「大変だ、きっと今ごろ神様が大騒ぎしてるね」 「どうしてでしょう……?」 「君がいないって、あちこち探しまわっているからさ。だけど僕は番号を知らないから、天使はここにいるから安心してって教えてあげられそうにない」 「はあ……」 「まだ離したくないな……オースケのつがいがこんなに魅力的だなんて。それに、とても甘くていい匂いがするね……この世の幸せは、きっとこんな香りがするんだろう」  忍には外国人の友人はいないが、シャイな日本人とは違って口説き文句が熱烈だと聞いたことがある。にしても、天使扱いされたのは初めてだ。バリエーション豊かで面白いし、同僚のつがいにも手を抜かない褒め殺しスキルには感心してしまった。 「ディック」  ディックと忍の顔の間に、にゅうっと大きな手が現れる。その手は彼の顔面を無遠慮に押しやり、忍との間に距離を作った。 「人のつがいを口説くのはやめてくれ」  よたよたと二、三歩後ずさったディックは、割って入った皇輔へ苦笑している。 「ああ……すまないオースケ。君の言う通り、シノブは天使だ。想いを抑えきれず触れてしまったことを謝るよ」 「気をつけて。……忍さん、大丈夫です?」 「うん、大丈夫だよ。ディックさん、気を遣わせてすみません。うれしいです。ありがとうございます」  頭を下げると、ディックはひらりと手を振る。 「謙虚なところも素敵だね。それじゃあ、僕はそろそろ失礼するよ。オースケ、オフィスで待ってる」  白い歯を見せてさわやかに微笑んだディックが、颯爽ときびすを返し去って行く。  男が見えなくなると、忍を隠すように仁王立ちしていた皇輔が振り返った。 「すいません、ゆっくりできなくて」 「ううん。俺こそごめんね、失礼なこと言ってないかな」 「ええ、とても天使でしたよ」 「もーそれはいいよ、恥ずかしい。二人でよってたかって、からかわないで」 「そんなつもりじゃないんですけど」  苦笑した皇輔が、テーブルの下にあるバスケットから忍のバッグを取る。楽しい時間は終わりだ。  昔から、いつも彼と過ごす時間だけが、足早に忍を追い越していく。 「今日はありがと。俺行くね」 「北側のパーキングですよね? 送ります」 「いいよ、いい。今夜は皇輔の好きなご飯作って待ってるから、お仕事頑張って」  ただでさえ忙しい営業部のエースだ。これ以上、彼の時間を忍がもらうわけにもいかない。受け取ったバッグを肩にかけると、皇輔が小さく二度うなずく。 「早く帰ります。ハンバーグが食べたいです」  甘いものは苦手なくせに、舌はお子様寄りだ。カレー、エビフライ、オムライス、寿司、焼き肉――皇輔の好きなものを思い浮かべていた忍は、「了解っ」と親指を立てた。  持って生まれた運命を呪って憎んで恨み、踏みくちゃにして人の尊厳をどぶに捨てるような、三カ月に一度の一週間。それを乗り切った忍は、欠伸が出るような平和の中へ舞い戻るたび実感する。  皇輔と過ごせる穏やかな三カ月は、いつ終わりがきてもおかしくないのだと。
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