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仮初の終止符、孤独な未来へ
その日から、皇輔と忍は今までにないぎこちなさで新年を迎えた。
相変わらず週に二度ほど帰宅の遅い日がある皇輔は、いつしか忍を直視しなくなり、忍も居心地の悪さで自室にこもりがちだ。以前のような仲のいい関係は、遠い昔の白黒写真みたいに風化している。
家事だけすませて実家の離れにいることも多くなり、最近はついに少しずつ荷物を移し始めたところだ。
敷地内の隅に建てられた離れは、こぢんまりとした平屋だ。こぢんまりと言っても母屋の邸と比べればの話で、学生が一人暮らしをするような1Kアパートの部屋ならゆうに二軒分は入る。つまり、一人でいるには広すぎるということだ。
そのせいか、母屋で家族と住んでいたときより長く寝起きしていたのに愛着がない。物を置く気になれず必要最低限の家具しかない殺風景な部屋は、マンションの自室よりずっと生活感がなかった。世話をしてくれた使用人がいつも「掃除がしやすいです」と、気を遣って笑い飛ばしてくれたくらいだ。
夏物衣料を詰めこんだボストンバッグを肩から下ろし、床の上にゴロンと転がる。暖房をつけていないためかなり寒いが、荷物を抱えて移動したおかげか身体が火照っており、キンと冷たいフローリングが気持ちいい。目を閉じて熱い息を吐く。
忍の私物は少ない。元より物欲の薄いタイプだし、自宅仕事だと服や小物も数を揃える必要がなかった。皇輔と暮らすあの家で一生を過ごせないとわかっていたから、余計なものを増やさないようにもしてきた。
おかげで、荷物の移動も一月中には終わりそうだ。予定としては今月の発情期が来る前に全て移動させ、先んじてもらってきたつがい契約破棄申請書への署名を打診するつもりでいる。彼は遠慮してすぐにはうなずかないだろうが、真摯に話をすれば自分の幸せを追いかけてくれるはずだ。
「あっけないなあ……」
「何がかな?」
「!?」
独り言にレスポンスされ、慌てて飛び起きた。部屋の入口に肩を預けた長兄が、おかしそうに口元を押さえて立っている。
「忍、久しぶり」
「真さん……お久しぶりです。どうしたんですか、まだ真昼間ですよ?」
「今日は木曜だよ。午後は休診。そんなことより……他人行儀な呼び方と敬語はやめようって、正月も再三言ったところなんだけどな」
「あ、すみ、……ごめん」
「いいよ。そんなに落ちこまないで。滅多に会わないんだから、ゆっくり慣れてくれればいいんだ」
内科医である真は、照れくさそうに頬をかく。神経質そうな雰囲気が、笑うと目尻にしわが寄って和らぐ。勤め先の院では整った顔立ちと親身に患者と向き合う姿勢が人気らしく、診察の指名をもらうこともあるのだと使用人が言っていた。
忍がオメガだとわかるまでは、絵本や児童書を読み聞かせてくれた優しい兄だった。長姉の華と次兄の新は自由奔放な性格で豪胆なため、おっとりした忍は穏やかな真にもっとも懐いていた。
本来なら、こんなふうに名前の呼び方や、言葉遣いで惑うことはなかっただろう。強制的に引き離されていた期間を挟んだ四兄弟は、各々が距離をはかりかねている。
「さっき帰ってきたら、忍の車があったから。いつもみたいに仕事でこもるのかなって思ったんだけど……鍵も開いていたから、声だけかけてみようかな、とね」
「……? 何かあったんで、……あったの?」
「そう、上手だね。昼食がまだなら一緒にどうかな」
「ありがと……でもごめん、もうすませちゃった」
「ああ、ならいいんだ。ところで、何をしてたんだい?」
つがい契約破棄が成立し、家を出る日のために少しずつ荷物を運びこんでいる――などと言って無用な心配をかけるわけにもいかず、「夏物の置き場がなくて」とごまかす。
真はそれを疑わず、何か微笑ましいものでもながめるように目尻へしわを寄せた。
「それなら離れじゃなくて、母屋に運べばいいのに。もう、こっちは壊してもいいんじゃないかって母さんも言っていたし」
母屋には今も、忍の部屋が残されているらしい。「らしい」というのは、自分の目で確認していないからだ。
兄たちは、未だに実家へ帰ると当然のごとくこの離れで過ごす忍を、しきりに邸へ誘う。もうフェロモンの影響はないのだから、昔のように兄弟水入らずで過ごしたいと思ってくれていた。
だが、忍はうなずけない。この離れですら愛着はないが、母屋はもっと「他所の家」だったからだ。誘われれば食卓に邪魔することもあるが、とても寛いだりできない。
「ここを……壊すかどうかは、父さんと母さんが決めたらいいと思う。けど、ごめんね、そっちは……息が詰まって」
「そう……いや、僕こそごめん。忍にとっては複雑に決まってるのに。そういうことなら、この離れは取り壊さない方向でそれとなく言っておくよ。もし皇輔くんと夫婦喧嘩したら、家出する場所がないと困るだろうしね」
胸どころか、鳩尾を越えて胃、その下まで痛む。夫婦喧嘩も家出もしないが、忍がこの家に戻ってくる日は近い。
皇輔の親戚が振りかざした善意のような何かを思い出す。佐久本の家に戻るより、葛城の中で――そんな未来は、できれば避けたい。皇輔は優しいから、目の届くところに忍がいれば気を割くはずだ。
それにセックスも妊娠もできないオメガとして誰かに引き取られるくらいなら、この離れで一人静かに過ごしたい。つがい契約が破棄になったことで両親に責められるのならば、どこか遠いところで家を借りればいいだけだ。
それくらいの貯金はあるし、なんなら知人もいない場所で再スタートを切るほうが精神的に安全かもしれない。
「ありがと、真兄さん」
「忍、なんか……元気がない? ちょっといいかい。顔が赤いようだけど、熱かな」
「え、そ……?」
心配そうな顔をした真が熱を測るため、部屋の中へ入ってくる。
――しかし、すぐにビクっと立ち止まった。叩きつけるように鼻と口を手で覆い、険しい表情で忍を凝視する。
「この、匂い……発情期……?」
「う、うん。もうそろそろ周期だ、けど……え、なんで……」
二人ともが、予期せぬ事態に混乱している。
ゆっくりと数歩下がった真は、廊下まで戻ると苦しそうに胸元の服をわし掴んだ。
「どうしてつがいがいるのに、フェロモンの匂いがするんだ……!」
――願いも、予定も、すがろうとした静かな未来も、ぐらついて容易く横倒しになる。
うなじに食いこんだ皇輔の歯の硬さを、忍はまだ、忘れていない。
真はヒートによる興奮を必死に理性で抑えながら、急いでかかりつけの総合病院へ行くよう忍に指示した。彼が担当医に連絡を入れてくれたおかげで、待ち構えていた看護師に誘導され、アルファの患者を刺激することがないよう病院の裏口から検査室へ通される。
診察を終えたあと、担当医は難しい表情でPCの液晶画面に表示されている電子カルテとにらみ合っていた。
「やはり……フェロモン濃度の数値が異常に高くなっていますね。医療従事者が服用している抗フェロモン薬はかなり強いはずなんですが、私も結構つらいです」
咳払いをした医師は、耐えかねたように「失礼」と言い、箱に入ったマスクを装着する。花粉やウイルス対策のためのマスクとは厚みから違う、フェロモン対策用の特殊なものだ。
「どうして……だ、だって俺、ちゃんとつがいがいて……なのに」
「葛城さん、大丈夫です、大きく深呼吸しましょう」
つがいのいるオメガのフェロモンが他のアルファにも察知されるだなんて、これまで耳にしたことがない。一体自分の身体はどうなっているのか、不安でたまらない。
担当医は忍の肩をそっと叩き、先導するように自ら深呼吸をする。目の前で行われるそれを真似て鼻で大きく息を吸い、口から思いきり吐き出した。繰り返すと、気づけば冷えて痺れかけていた指先に温もりが戻ってくる。
「すみません……取り乱してしまって」
「いいんですよ。しかし……こんなにフェロモンの香りが強くなるまで、誰にも指摘されませんでしたか?」
自宅仕事で、移動は車。食材は一度に買いこんで計画的に使うし、昔から混雑する時間を避けて手早く買い物をする癖がついている。気軽にメッセージ一通で会うような親しい友人も、社会人になってからはいない。
「ええ、誰にも……あまり外には出ないので」
「そうですか……私の考えをお話したいのですが、つがいの方を呼ばれますか?」
皇輔と、一緒に。
無意識にうなずきかけた忍は、慌てて首を横に振った。担当医が何を告げるのかは皆目見当もつかないが、わざわざ皇輔を呼び立てる必要はない。彼に話すなら、あとで時間を見つけて言えばいいだけだ。
「俺だけで大丈夫です」
担当医は忍が怯えていることが気になるのか、困惑している。糸目をややしかめるが、やがて患者の意思を汲み取った。
「世間への周知はされていませんが、オメガにも『ハイクラス種』が確認されています。葛城さんも、その可能性があります」
まず告げられた結論が、忍を呆然とさせる。
「……ハイクラス、ですか」
「ええ。特徴としては、通常のオメガの平均二倍から三倍ほどフェロモン濃度の数値が高いこと。つがいができるまでは薬がほぼ効かず、発情期以外の期間もフェロモン濃度が下がらないこと。これによってアルファのヒートを誘発しやすいこと……妊娠出産にかなり適しているため身体が強くて免疫力も高い、などです。忍さんがつがいを得るまでのカルテがご実家に保管されていたら数値を比較できるので、診断を確定しやすいのですが……」
実家のかかりつけ医は両親の指示により、忍のカルテを保存していなかった。定期的な検査もなく、ただ強い薬を服用させられていた忍は過去の数値を知りようがない。
だが、思い当たる節はあった。
「お、俺……発情期以外も匂いするって言われてて……薬、あんまり効かなかったです。風邪もほとんど……ひかなかった、です」
「つがいができて以降は?」
「薬も効くし、フェロモンを垂れ流さなくなりました……」
忍の説明を聞き、医師はデスク横の本棚に無理やり突っこまれていたファイルを一冊取り出して中の資料を漁る。そして冊子を抜くと、あるページを開いて忍へ見せた。
「稀につがい関係が無効になる症例が過去にもあって……要因として挙げられるのはこれですね。身に覚えは?」
ささくくれた指先が示す部分を視線で追い、忍は額を押さえて項垂れる。
膝の上で脱力する手を伸ばし、「性交中以外のつがい契約」「つがい相手と性行為がない」「運命のつがいが現れた」の文を指した。
「ちょっと失礼しますよ」
担当医が腰を浮かし、忍の襟足をかき上げてうなじをのぞきこむ。
椅子に戻った彼は、浮かない表情だった。
「かみ痕が薄くなっています」
「そんな……」
「高確率であなたはハイクラス種です。これは現時点での仮説ですが……性行為がない状態で運命のつがいが現れ、強いオメガの本能が他のアルファの子種をもらえるように、今のつがい契約を自ら破棄しようとしているんでしょう」
近いうちに、つがい契約はなくなる可能性が高い――そう告げられて、忍は自分の運命にただ幻滅した。
一度かんでもらえたら、いずれ書類上は無関係の他人になっても、うなじに皇輔の痕が残る。一生、彼のつがいでいられる。だからこそ横暴な提案をして彼の時間を拘束させてもらった。十年もつがい面でそばにいた。
今だけだから、と罪悪感を押し殺して、与えられる幸せを貪り食ってふくらんだ腹をさすっていた。
それなのに、忍は彼の生を無駄遣いさせた挙句、何も残らないまま去らなければいけないのか。
じゃあ、皇輔は一体、なんのために十年を捨てたのだろう。
「か、仮説……ですよね? そんな症例、滅多にないんですよね……?」
「滅多にありません。ですが私は、ハイクラスオメガが自らつがい契約を破棄した症例を見たことがあります」
「え……」
担当医の顔は、ただの患者である忍にもわかるほど、後悔にまみれている。
「私の兄が、そうでした」
「……お、兄さん……」
「当時はわかりませんでしたが……彼はコントロールの効かない発情期に苦しみ、フェロモンに怯え、ままならない生活でした。だから、……私がかみました」
――ノイズのように、十年前にニュースを席捲した、『兄弟のつがい』の話題がよみがえる。
糾弾する反対派が倫理観を振りかざして叩くと、それを憐れむ擁護派が感情論で迎え撃った。当人の状況も気持ちも置き去りにし、やがて真新しいオモチャが現れると時代に埋もれた一件だ。
オメガの兄の気持ちがわかる、と、忍はあの日、皇輔を口説いた。
彼はどんな気持ちだっただろう。
「先生は……なんでお兄さんを、かんだんですか?」
「可哀想、だったからです」
「……。お兄さんは……今は……?」
「私たちの間にも当然、性行為はなく……つがい契約が自然と消えたようでした。海外に研修へ行っていた私は、それに気づかなくて……帰国したときには見ず知らずのアルファに襲われて、つがいになっていました。世間に叩かれ、親に勘当されてまで選んだことなのに、私は結局兄を普通の人にしてあげられなかった。兄は……今の人とうまくやっていると笑いますが、私にはそれが、強がりに見えて……」
涙がこぼれたのは、担当医と皇輔を重ねたからだ。
担当医の兄は、きっと自分を不幸だとは思っていない。会ったことも話したこともないが、忍にはそう思える。
同情してくれる相手にうなじを捧げたときに、覚悟はしたはずだからだ。いっときの幸せでいい。わずかな平穏でいい。今、ここから助け出してほしい。そのあとは自分でなんとかするし、強く生きていける。固めた決意を腹の中に据えていたはずだ。
だけど担当医はそうじゃない。何かを犠牲にしてまで救おうとしてくれた優しい気持ちを、いつまでも引きずって、後悔している。もっとよい方法はなかったのか、自分のしたことは過ちだったのではと、いつまでも。
皇輔も自分より忍を優先しがちな優しい男だ。
腹を決めて去る忍とは違い、彼は後悔するんじゃないだろうか。心を痛め、幸せな未来に影を落としてしまわないだろうか。
「先生……話しにくいこと、話してくれて、ありがとうございます」
「いえ。……ですから葛城さん、これは経験者としての言葉です。つがい相手と、きちんと話し合ってください。この先も一緒に、生きていくのなら」
彼は忍に兄を重ねているのか、ぎゅっと両手を握ってくる。祈っている。彼もまた、贖罪に生きている。
忍は嘆息した。
この十年、皇輔を騙して過ごしてきた日々を罪だとすれば、失いかけている幸福は、運命を自ら選ぼうとしたおこがましい忍への罰に違いない。
罪を犯した人間がそれを贖うのは、大昔から変わらないシステムだ。
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