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病院から自宅マンションへ帰ると、上着を脱ぐより先にチェストを漁り、手当たり次第に錠剤をシートから取り出していく。バッグの中から水のボトルを取って薬を数回に分けて飲むと、腹の中からチャポンと水の揺れる音がした。
担当医の話を聞いて、ずっと考えていた。
今日これから、帰ってきた皇輔に別れを告げる。つがい関係が薄れ、薬が効きにくくなっているなら離れるのは一刻も早いほうがいい。これが忍の運命だ。潔く「離れろ」と、運命の神様とやらがせっついてくるのがわかる。
荷物は当面の分だけ持って行けばいい。車は後日、真に頼んで返してもらえばいい。これまでの経緯も含めて事情を説明すれば、きっと優しい長兄は力になってくれる。
水と薬の飲みすぎでさすがに悪心に襲われ、胸をさすってベッドへ頭を置く。これだけ飲んだのだから、皇輔が帰宅するころにはフェロモン臭も抑えられているはずだ。そうでないと困る。
目を閉じて、医師に言われたことを思い出していた。いくらハイクラスオメガの本能だとしても、突然つがい解消の症状が出るわけじゃない。何か前兆はなかったかと訊かれたときは頭が働いていなかったが、冷静になれば思い当たる節があった。
食器用洗剤を変えたばかりの朝、「甘い匂いがして落ちつきます」と皇輔が言ったときには、すでにフェロモンを垂れ流していたに違いない。皇輔はオメガ嫌いでフェロモン臭に嫌悪を示すが、忍の香りは慣れたと昔言っていた。懐かしい匂いを「落ちつく」ものだ、と勘違いしたのだろう。
発情期を終えたばかりで、皇輔の会社に届け物をした日だって不自然だった。
彼は社員にぶつかりかけた忍の肩を抱き、何かに気づいたようにじっと見つめてきていた。明言しなかったが、あのときもフェロモンの香りがしたのではないだろうか。
カフェで挨拶したディックもそうだ。頬を寄せ合ったあと、急に熱っぽい視線で忍を口説いた。「甘くていい匂い」だと言っていたのは、フェロモンに惑わされていたからだろう。
極めつけに脳裏を過ぎるのは、詩織と会っていると直之に聞いた夜、帰宅した皇輔の態度だ。リビングの扉を開けてすぐ、忍の顔を見てひどく驚いていた。その夜以降、彼は忍と目を合わせなくなった。
強くなっていくフェロモンの匂いは、同じ部屋にいられないくらい、くさかっただろう。
思えばずいぶん、彼と顔を見て話していない。この十年、当たり前にできていた行為が、いかに手にしがたい宝物だったか、忍は深く実感する。
おはよう、と言い合う。一緒に食事をする。仕事に行く背中を見送る、幸せな朝。
彼が帰宅する家を掃除するのは楽しかった。帰宅した皇輔が扉を開けて、漂う夕飯の香りに鼻をひくつかせるのが可愛かった。好物、とりわけハンバーグが好きな彼は、夕飯にそれが出るとビックリするほどうれしそうに頬をゆるませる。忍はその顔を見るのが大好きで、喜ぶ顔見たさに手作りソースのレパートリーを増やしたりした。
忍が入浴している間に彼が淹れてくれる珈琲は苦かった。キッチンに立つのはあまり得意ではないようで肩を落としていたが、忍は彼の濃い珈琲が好きだった。一緒にソファで座っていると、たいして興味のない番組だって面白く思えるのだから不思議だ。
二十四時間、三百六十五日。休みなく、恋をしていた。
今だってそうだ。明日からも、そうだ。
シーツに顔を埋めたまま肩を震わせて笑った。泣きはしない。悲しいことは何もない。「失いかけている幸福」なんて、とんだ勘違いだ。
忍は何も失っていないし、失わない。唯一欲した皇輔を、得たことがないからだ。
手の中が空っぽだから、失うことを恐れず彼のそばに飛びこめた。忍は幸せだった。ただ息をひそめるさだめの恋心が、彼と過ごした十年分の想い出を抱えていたから。
さよならの土産として、これ以上のものはこの世にない。
――ガチャン、と玄関が開閉する音がした。
皇輔の帰宅を察し、のっそりと起き上がる。時計の針を見ると帰宅してから一時間半が経っていた。気づかないうちに眠っていたらしいが、そのおかげか悪心は消えている。
コートを脱いでいつものカーディガンを羽織り、自室を出たタイミングで、リビングと廊下を隔てる扉が開く。
お帰り皇輔、お疲れさま――ここしばらくは気まずくてあまり言えなかった、いつもの労いを投げようとしたとき。
「……直之さん?」
息をのんだ。入ってきたのは優しいお地蔵さまどころか、生気のない顔つきの直之だった。彼はゆっくりリビングへ足を踏み入れ、後ろ手に扉を閉めて目を細める。
「よかった。部屋の電気はついてるのにチャイムには応答がないから……何かあったんじゃないかと、皇輔に預かってる合い鍵を使わせてもらったよ」
「あ、そ、そうでしたか、えと、ごめんなさい……寝ちゃってたみたいで」
「起こしてごめんね、忍くん……あのね」
彼は眉をハの字に下げ、油を失った機械みたいにぎこちなく、横に引いた口角を上げる。きっとそれは笑みの真似だ。忍には、子どもが泣き出す寸前の表情に見えたけれど。
「皇輔を詩織のところへ行かせたよ」
――ツン、と鼻の奥が痛む。
「詩織が発情期に入ったから」
「……皇輔は、知って?」
「いいや、何も知らない。だけど」
発情期の、運命のオメガが目の前にいたら、アルファはそのとき何を思うだろう。
忍はオメガで、運命のつがいと出会ったことがないから、わからない。しかし彼らが、つがいになることだけはわかった。
「そうですか…………」
ドアノブにかけた指先が脱力し、身体のそばへ垂れた。
うまくいかない。話ができないまま、気まずいまま、つがい関係は終わる。次に皇輔と会うとき、忍は誰のつがいでもなく、彼は詩織のアルファだ。
別れ話を切り出すつらさを味わわずにすんだ。俺は幸せだったから、どうか、幸せになってほしい――。
心からそう思うのに、あの焦げくささが鼻にまとわりついた。剥き出しの想いを直火で炙られているかのように痛い。あつい。幸福を祈ることができない自分が、醜くて悪寒がするほど気持ち悪い。
は、と息が切れると、込み上げたものが目頭からぼとぼとと落ちる。頬を伝って顎から滴り落ちると、フローリングに水玉を作った。
「ごめ、なさ……っ直之さんだって、しんどい、のに」
親の手を見失った子ども。袋小路に迷いこんだ逃亡者。砂漠の真ん中で立ち尽くす旅人――そういったものと変わらない絶望感だ。
膝をつき、せめて嗚咽だけは殺そうと口を押さえる。
心配そうに直之が近づいてきた。彼はそばにしゃがみこみ、自分もつらいだろうに、「いいんだ」と精一杯優しく忍の肩を撫でる。
その手が、ビクっとあからさまに不自然な動きをした。
「しのぶ、くん……ちょっと……何?」
「え……?」
涙に濡れた顔を上げると、口元を押さえた直之がギラギラと支配者のごとく瞳を光らせていた。ゾクリ。背筋を駆け抜けたのは、信じがたいが、期待だった。
「――いいにおいだ」
直之は、アルファだ。そして忍は、ハイクラスオメガだ。
大量に服用した薬には、せせら嗤うように裏切られた。あれだけ飲んで効果がないなら、逃げ場がない。
「ぁ……あ、ぅ……っ」
身体が動かないのだ。ヒートを起こしかけている直之を前に、尻と床が癒着したように離れない。ボロボロと涙をこぼしっぱなしにする忍は、唖然と、男を見ていた。
「直之、さん、離れて……お願い、俺は今、動けないから……」
火種が生まれた気配があった。身体の中のどこか、忍の気持ちを鑑みてくれない非情な部分に宿るそれには、『本能』などというたいそうな名がついている。
それらはチリチリと焼いていく。
皇輔と過ごした愛しい日々。優しさを注がれた記憶。守ってもらい、ときには慈しむように手当された身体。恋で埋め尽くされた、心も全て。
そうして燃え盛るように――約十年、指一本受け入れていない孔と、その奥に息づく子宮を疼かせた。
息が上がる。強制的で身勝手な興奮は、何度も味わってきた苦しい一週間の入口だった。
「お、俺……ッ発情期きた、からぁ……っ直ゆ……きさ、ん、離れて……!」
まだ周期前なのにと思ったが、ハイクラスオメガの本能は忍を裏切り続ける。わかるのだ。目の前のアルファを――直之を欲しがって、ありったけのフェロモンを放出しているのが。甘え、すがるように、愛して、孕ませて、と肌を震わせている。
精一杯の警告は無意味だった。直之は全力疾走の直後みたいに呼吸を荒げ、渇いた唇を舌で何度も舐めている。彼らしくない獰猛な視線も呼気も、オメガをロックオンした狩人だった。
「どんな薬の飲み方したら、こんな匂いになるんだい? 熟れきった果実を詰めこんだ箱にふたをしているみたいな……ああ、ひどい、隠そう隠そうとする匂いが余計、鼻につくよ、いい匂いだ、甘い、甘い」
「直之さん……っ落ちついて、お願い……!」
「無理だ……こんなに美味しそうな匂いをさせて、よくそんな非道なことが言えたね? おかしいよ……こんなに攻撃的な気分になったのは、初めてだ」
彼自身も本能と理性の間で葛藤している。頭をぐしゃぐしゃとかきまわし、疼く歯を押さえている。
「皇輔のつがいなのに、どう……どうして僕は、こんなに君を虐めたいんだろう。押さえつけて、脚を開かせてっ、かき出せないくらい深いところに、出したい……っ」
我を失ったように瞳孔を開かせた直之が、忍の二の腕を掴んだ。あまりに力が強く、痛みで顔をしかめてしまう。
だがその痛みのおかげで、忍はどっぷりと沈みかけていた酩酊状態から戻ることができた。
「……っごめんなさい!」
男の腕をはたき落とし、自室へ逃げこむ。鍵を閉めて時間を稼げば、特効薬を打てる。
だが直之は紛うことなきアルファだった。鍵をつまみ損なった一瞬の隙に、ドアレバーを下げて押し開かれてしまう。内開きの扉は不運だった。「膝カックンで死にそう」と、からかわれていた忍では簡単に競り負ける。
「ちょ、ぁうっ」
「忍くん……」
踏ん張り切れず尻もちをついた忍を、直之は仄暗い眼差しで見下ろした。後ろ手に鍵をかける金属音が、エンドロールの最後の一音に聞こえた。
「抵抗しないでほしい。じゃないと、ひどくしてしまいそうなんだ。お願いだ、せめて傷つけたくない」
小さく、ごめんね、と続いた。忍は直之を見上げて涙をこぼし、後ずさることをやめる。
皇輔を何度も襲った、義父による発情テロと同じだ。被害者は直之であって、フェロモンを撒き散らしているのは忍だ。彼を責めることなんて、彼が罪悪感を覚えることなんて、あってはいけない。
「……ごめんなさい、直之さん。俺のせいです。あなたは何も悪くないですから」
直之が膝をつき、忍の肩を押した。フローリングへ押さえつけられ、身体の力を抜く。
皇輔はあきらめる忍を非難してくれたけれど、忍はやはりオメガだ。誰かが深く傷つかなくてすむのなら、なんでも受け入れて流せる「オメガ」でいい。
ぼんやりと天井を見上げていると、息遣いしか聞こえなかった耳に、不意にノック音が届く。ガチャガチャとドアノブが動き、誰かが扉の向こうにいることがわかる。
「お、すけ?」
呟くと、ハッと目を見張った直之が、忍の服の中へ手を差し入れたまま少し身体を起こす。
「皇輔……?」
「そうです。兄さん、忍さんから離れてください。それからここを開けて」
「詩織、は」
「……いいから、開けてください」
淡々とした、いつもの皇輔の声だ。渇きかけていた目尻が再び濡れる。けれど忍は口を押さえ、嗚咽と息を殺した。
なぜそうしたか、わかっている直之が力無い笑みをこぼす。
「ねえ、皇輔。今までたくさん我慢してきたんだから、添い遂げる相手くらい、皇輔のもっともいい人を選ぶべきだよ。今までごめん、もういいんだ、皇輔」
「我慢? 兄さん、何言ってるんですか」
「運命のつがい同士で、どうか幸せになってほしい」
「……兄さんは、どうなるんです?」
「余り者同士でいるのも、ひとつの方法かな、とは思うよ」
「ぅ、ン……ッ」
直之の手が服の中でうごめき、腰骨の内側をくっと押さえた。揃えた指先を肌へすべらせ、相変わらず薄着な忍の服をたくし上げる。
「忍さん?」
おかしな声がこれ以上漏れないよう、両手で必死に口を押さえる。まともな愛撫を受けたことのない身体は直之が手を動かすたびにビクビクと反応し、気持ちいいとくすぐったいの狭間の感覚に悶えてしまう。
悲しくてたまらない。ディックとチークキスをしたときはまだゾッとできたのに、今は皇輔以外のアルファに触れられて、身体が悦んでいた。本能ばかりが忍を裏切る。
「忍さんも、兄さんがいいですか?」
そんなわけない、と言えたらよかった。
「そう、だよ、ごめんね、皇輔」
「……わかりました」
離れていく足音。忍はただ、こめかみへ涙を落とす。
直之は両手で胸元を探り、切なげに微笑む。そしてきゅっと小さな飾りをつまんだ。まるで、一思いに息の根を止めてあげるよ、と言わんばかりに。
「あ、あ……っ」
明確な快楽が胸から下半身へと駆け下りると、押さえきれない声が迸った。思わず男の腕を掴み、浮き上がってしまいそうな腰を床へ引き留める。ズボンのフロントは窮屈そうに張り詰め、後ろににじむ愛液が襞を濡らしているのがわかった。
「な、直之、さん、こわぃ……っ」
「大丈夫……もう、皇輔はいないから」
「ひ、ンンッ、や……ぁ、っあ」
乳首の先端をこすられるのも、指の腹でノックされるのも、怖いくらいに気持ちいい。身をよじって逃げようとすると、忍はうつ伏せに押さえつけられてしまった。
「いっそ本当に、つがおうか、忍くん」
つつつ――と、うなじに指が触れた。その瞬間、忍は全身をばたつかせて暴れ出す。
「や、やだ! やだやだ! 触んないで!」
「忍く……っ!? ぁ、危ないから、っ」
身体を抑えつけられ、逃げ出すことはあきらめる。代わりうなじを両手で隠し、蹲って形に残った想い出を守ろうとした。
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