でもやっぱり、落としたものは拾わないと

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「ねぇ、春賀。どこに向かってるの」 弾む息をなんとか整えて問いかけるも、先を行く彼女はやはり何も言わずにただ上へと続く山道を軽々と登っていく。何回目だっけか、この質問するの。さっきまで回数を数えていたはずだが、あまりの疲れにすっかり忘れてしまった。日頃家に閉じ籠り気味な僕の足は既にぷるぷるとか弱い悲鳴をあげ、休憩を望んでいる。もうだめ。ギブ、ギブアップ。 「ちょ、ちょっとだけ待って!タイム、休憩!」 勢いよく地面へ頭を振り下ろすと共に膝に手をついて下を向き、僕はぜーはーと荒い息を必死に整えようとした。こめかみから汗が流れ、鼻先から地面にぽつりと落ちる。小さな石ころの上を歩いていた蟻が突然の塩の雨に驚いたように方向を変え、草の影に隠れて見えなくなった。日頃嗅ぎ慣れない草と土のにおいに塩水のしょっぱい臭いが混ざって、幼いころに追いかけっこで転んで母さんに抱き上げられた思い出がよみがえる。 いつもつけている腕時計は、熱を持って汗ばむ手首と触れあって地味な気持ち悪さを出していた。 梅雨明けするには充分だが夏と呼ぶには足りない、この中途半端な暑さが嫌いだ。夏といえば欠かせない忙しない耳鳴りのような蝉の声は聞こえないのに、肌を突き刺してくるようなひどく暑くて痛い日射しだけは、まるで早く夏を認めろと言わんばかりに容赦なく全身を包みこむ。嫌い。嫌いだ。この中途半端な、なりそこないの夏の時季が。 視界の端で何かが揺れたのに気付き暑さのせいでばらばらと飛んでいた思考と焦点を引き戻すと、春賀がしゃがみこんで前屈みの僕を覗き込むように見上げていた。 「あぁ、ごめん、もう大丈夫。行けるよ」 微かに笑い、立ち上がった春賀を追うように視線を上げると、彼女は既に僕よりも大分前を歩いていた。その早さに驚くと共に、小さく笑いがこぼれる。 まったく。彼女はいつも僕より先をいく。 登り始めた頃にはまだそこまで高い位置になかった太陽が、真上を越した頃。背の高い木や岩ばかりで遮られていた道がなんの障害物もなく開かれ、眩しい光が目にささった。 先に着いていた春賀が目を閉じて一層強くなった日光をその白い肌に惜しげもなくさらしている。生まれつき色素の薄い艶やかな髪と長い睫毛が光を反射し、着ている白いワンピースが風になびく様はまるで、いつか本の挿絵で見た下界に舞い降りた天使のように神々しくすらあった。 しばらく呆けたまま彼女の光合成を見ていたが、そういえば、と我に返る。 そういえば、僕はここに連れて来られた理由を何一つ知らされないまま来たのだった。いい加減教えてくれてもいいじゃないか。 「ねぇ、春賀」 あ、思い出した。さっきの質問は八回目だったからこれで九回目だ。次で十回目じゃないか。十回聞かないと教えてくれない、みたいな隠し要素でもあったのかな。 そんなことを何故今この瞬間に思い出したのかは自分でもわからない。 ただ僕は、重力に従って視界から消えていく彼女をそんなくだらない思考回路の中で見ていることしかできなかった。 手も伸ばせず。 足も踏み出せず。 声すらも発せずに。 ____ぐしゃり あれは確か小学三年生の夏休みだったと思う。 お盆の日は祖父の家に集まって親戚みんなでご飯を食べる風習があり、その準備のために祖父が大事に育てている畑からトマトを十ばかり取ってくるように頼まれた僕は、子供なりの手伝いへの怠慢を発揮して雑にボウルへ詰め込み。 当然のごとく他に押しのけられはみだしたその赤で足元を濡らした。 木材をロープで縛っただけの柵と呼ぶにはあまりにも粗末な出来栄えのバリケードが、何事もなかったかのようにそこに在る。 先ほどそれを乗り越えて消えた白いワンピースを追ってその下を身を乗り出して覗きこむと、眼下に立ち並ぶ岩の先とその足元にトマトがぐしゃりとへばりついていた。 「こんなとこにも落としちゃってたんだ」 ___拾わないと。 しかし落ちたトマトは目を凝らさないと原型をなぞれないほどつぶれていて、あまつさえ切り立った崖の下でとてもじゃないが降りれない。 下を向いているせいで汗が目に流れ込み、その痛みに思わず瞼を強く閉じる。鼻がツンとして、序に舌の付け根に胃液の苦味が残った。
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