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翌日の朝。いつもより少し早く目が覚めて、いつもより少し早く家を出た私は、通学路のあの公園の前を通りかかったときに信じられない光景を目にした。
あの木に、満開の桜が咲いている。
今は秋だ。桜の季節ではない。ようやく葉が散ったばかりだというのに。
朝もやの中、無人の公園に、満開の桜の大樹が、堂々と――しかし何処か儚気に佇んでいる。
朝早いので公園に人はいない。人気は無く静かだが、花の蜜を目当てに集まってきた小鳥たちのおしゃべりがにぎやかに響いていた。
立ち尽くす私に、花の中から手を振る少年。
「良かった。間に合った!」
満開の桜に埋もれながら、枝と枝の合間から身を乗り出すようにして、こちらに手を振っている。
「……これ本物? それともあなたが作ったの?」
「ふふ、どうでしょう」
私の質問に是とも否とも答えず、ただ悪戯っぽく笑う。私が公園に立ち寄って木の下まで行くと、彼は桜の枝を揺らして上から桜の花弁を降らせた。揺れた枝に驚いて小鳥が数羽飛び立つ。雪のように、はらはらと桃色が降ってくる。
「……すごい」
小さく呟くと、彼は満足げな顔をして揺らすのをやめ、幹の一番低い位置から伸びた小さな枝を指差した。
「その枝と、その隣。折っていいから、持って帰って家と教室に飾りなよ」
「え。駄目だよ、公園の木は大切にしないと」
「大丈夫、これはいいんだ。午後になると人がたくさん来る、持っていくなら今だよ」
「……どうして?」
「おまじない」
彼は見慣れた動作で、唇の前に人差し指を立てて微笑んだ。
心の中で謝りながら、指定された枝を二本丁寧に折り取った。ひとつは家に、ひとつは教室に。
時間に余裕があったので、一旦家に戻って部屋に生けておくことにした。私が帰宅しても、台所にいる母親は気付く様子はない。父親は部屋に引き籠もっているらしい。つくづく変な家庭だなと思う。母親が台所から出てくる前に、リビングの棚の中から花瓶を見つけて水を入れ、置き場に少し悩んだ末、ダイニングテーブルの上に飾っておいた。
再び家を出て公園の側を通る時、まだ公園にいた彼に会釈する。彼は笑顔で手を振っていた。そういえば午前中に彼に会うのは初めてで、いってらっしゃいと見送られるのはなんだか新鮮だ。
いつもより少しだけ早い時間。教室にはまだ誰も来ていなかった。教室の隅で埃をかぶっていた花瓶をすすいで水を入れ、黒板の脇の棚に桜を生けてみた。大嫌いな教室が、心なしか少し明るくなった気がする。
そしてその日、彼の“おまじない”は驚くべき効果を発揮する。
投稿してきたクラスメイト達が次々に、誰が桜を飾ったのか、こんな季節に何処で見つけたのかと私に声を掛けに来たのだ。生徒だけではない。授業ごとに入れ替わる教科担当の先生も。そして、その話が出るたびに、クラスメイト達が私の名前を挙げる。人からもらったんだと答えれば、みな感心したように桜の花を眺め、その美しさを褒めてくれた。
クラスメイトと話し慣れていない私は一日中緊張しっぱなしだったけれど、お陰で少しクラスメイト達との距離が縮まったような気がした。
皆が褒めてくれた、季節外れの桜の枝。放課後に念のためもう一度花瓶の手入れをして、心の中で感謝の言葉を唱えてから帰路を急ぐ。いつもの公園に通りかかると、やはり人だかりができていた。あまり人が多いところに行っても彼とは会えない気がして、あとでもう一度来ようと判断し足早に通り過ぎる。
そうして行き過ぎた公園をちらりと振り返ったとき、異変に気が付いた。
――あんなに目立っていたはずの、あの満開の桜が見えない。
思わず足を止めて、引き返した。早足はやがて駆け足になって、いつものあの場所へ向かう。たくさんの人がそこを取り囲んで、季節外れの桜の花びらを不思議がっている。けれどその頭上に見えるはずの枝も、花も無い。
人だかりをかき分けて、視界に飛び込んだ光景に茫然とした。
あの木があったあの場所の地面に、大きな穴が空いている。
木が、無くなっている。それに、ベンチも。
ぽっかりと空いた穴の周りには立ち入り禁止のポールが置かれている。周囲の地面には桜の花弁が沢山散らばっていて、それだけが今朝の出来事が現実だったのだと知らしめていた。
「ここにあった木は、どうなったんですか。ベンチの後ろの」
近くで立ち話をしていた婦人をつかまえて尋ねると、初対面のはずの彼女はあら、と目を丸くして私の顔を見た。
「この公園、もうすぐリニューアルされるのよ。ここの桜は残すかどうかって話もあったんだけど、ずいぶんと古いし、根っこも弱って中に空洞ができているし……いつ倒れるかわからなくて危険だから、伐採されることになっていたの」
「伐られたんですか……」
「あなた、いつも一人でここに来ていた子でしょう? あの木を見る時のあなたの顔がとても幸せそうで、とても気に入っていたみたいだったのに、残念だったわね。狂い咲きの桜は、きっとあなたにお別れのご挨拶だったのかもしれないわね」
――ひとりで。
――あの木を見る時の。
どういうことだろう。
何を言っているのだろう。
それから何と答えたのか、覚えていない。
ただ立ち尽くす私の前からは、次第に人が減っていく。
日が傾き、気温が下がり、やがて公園が無人になると、不意に背後から声がした。
「僕のおまじないどうだった?」
彼だ。
振り返ると、少年が笑顔で立っていた。
「……効いた、よ」
上手く話せない。
そういえば、彼が地面に立っているのを初めて見る気がする。
「そう? それは良かった」
あまりに自然な笑顔に、自分の頭がおかしくなったのではないかと疑った。
何故こんな事を考えているのだろう。
何故、彼はあの婦人の目に映らなかったのか、とか。
もうこの先彼と会うことは無いのではないだろうか、とか。
そんな事を考えているのだろう。
顔を見ていられなくて、地面をじっと見つめた。
「……サクラ、君」
「何?」
「あの……」
上手く言えない。口は動かないのに、頭の中では忙しくぐるぐると考えている。
そんな筈がない。
彼は、本当は――
「……ごめんね」
突然の謝罪に、はっと顔を上げた。
「この公園、もうすぐ工事が入るんだ。だからもう、君には会えない」
「工事が、入るから……?」
本当は、そうではない筈だ。
彼は黙って私の頭に手を伸ばす。
ふわりと触れる、その優しい感触を私は知っていた。
「あの桜を咲かせたの、あなたなのね」
彼の口元がほころぶ。答えはない。ただ、私が確信をもってそう問いかけたことが嬉しいというように、静かに微笑んでいる。
彼の姿の向こうが、微かに透けて見えるのは、気のせいだろうか。
「君は鳥とコスモスが好きだと言ったけど、僕はコスモスではないから……秋の桜と書いてコスモス、なかなか上手いだろう?」
そう言ってまた、いつものように笑った。
何を言えば良いのか、判らない。
時間だけが過ぎていく。そして、きっと彼にはもう時間が残されていないだろうことも、なんとなく察していた。
「そろそろ時間だな」
まるでいつも見ているテレビ番組が始まるのを告げるかのように、彼は言った。
「――っ、嫌……」
「いつも一人ぼっちだったんだ。僕は誰の目にも映らないから」
「……なんで急に、そんな話」
「君が、僕の初めての友達だったんだよ。初めて、人と話すことができたんだ」
「やめてよ」
「この一ヶ月、楽しかったよ」
彼の言わんとすることは、もう解ってしまった。
それでも。
「私には……サクラ君しか、いないのに」
涙が溢れた。
彼は少し目を伏せて、それから真っ直ぐに涙を流す私の目を見つめた。
「お願いがあるんだ」
「何……?」
「君は良い子だよ。友達ならすぐにできる。だから――」
彼が――桜がふっと微笑んで、両手をこちらに伸ばす。
一歩、前に出る。
彼の手が、私に触れる。
そして、力強く、抱き締められた。
突如、ざあっと風が吹いた。
驚いて目を閉じる。
風の中から、微かに耳に届いた彼の声。
私を包む彼の腕の感触が、消えた。
「! サク――」
目を開くと、彼はもうそこには居なかった。
桜の花弁が一片、彼の立っていた所でくるくると風に踊り、やがて力無く地に落ちた。
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