一蝶(1)

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一蝶(1)

 ふと傍らを綺麗な香りが通り過ぎた。  大学の階段教室。階段側に席を取っていた僕が少し驚いて顔を上げると、階段を下りていく女性の後姿が見えた。どうやら香りは彼女から零れているらしい。  誰だったろうかと思ったが、すぐ後ろから「一蝶」と呼ぶ声に彼女は振り返った。ああ、と僕も納得し、再び読んでいた本へ視線を落とした。  香水を付ける人だったのか。驚きはしたが、それはなんだか彼女らしいとも納得した。  一蝶という女性は不思議な魅力を持っていた。  美人と言ってしまえばそれまでだが、その言葉よりも先に「独特な」がよくついて回った気がする。変人というわけではない、そのニュアンスはどちらかというと「美しいものを見ているのだが、それを表現する言葉を知らない」という響きを含んでいた。  真っ直ぐ伸びたシルエットに、流行を追わないが品のあるファッション。黒タートルを中にベージュのトレンチコートを羽織り、白いパンツスタイル、差し色の赤いヒールを履いているのを見かけたことがある。ヒールのある靴なのに、あまり足音を立てずにさっさと歩いていく姿が、有象無象の中に際立って見えた。  なにかしらの一貫した哲学が、彼女の芯にあるように思えた。  その彼女の統一された意思の中で、いやその中だからこそ、浮き立って見えたのがミントブルーのマフラーだった。  彼女のセンスならば、もう少し服に馴染むものか差し入れるようなカラーを選ぶのではないか。マフラーをショール代わりに肩に掛けていた一蝶を眺めながら、僕はそう思った。  だが、どうやらそのマフラーから、あの綺麗な香りが吹いているようなのだ。  授業の終わり、僕は、今度はこちらに上がってくる一蝶へ声を掛けた。 「一蝶。なんか、すごくいい香りがするんだけど。その肩掛けかな」  実は、これが僕と一蝶の初めての会話だったので(後で一蝶に言われて僕は驚いたのだが)、さすがの一蝶も小さく驚いたようだった。  声を掛けた僕を見下ろし、ぱたぱたと瞬きをしたがすぐに口元に微笑みを作る。 「鼻がいいのね。たぶん、そう。マフラーに香水を掛けているのよ」  ちょい、と肩に掛けていたマフラーを摘まんでひらひらとさせた。心なしか、香りがよく広がったようだ。  僕はそれに内心、感動に似た衝撃を受けたのだ。香水をマフラーに付ける!  指輪やネックレスを付けるのではなく、彼女は香りで飾る。それも自身ではなくて、自身が巻くマフラーに。そんなお洒落のしかたもあるのだ。 「もう私は慣れてしまったのかしら。あまり香らないわ。  今日あたり掛けようかと思ったけれど、まだそんなに香りが残っている?」  すん、と一蝶はマフラーを鼻先に宛てながら軽く眉を寄せた。どうだろうか、と僕が返す前に、彼女は「束、どう?」と持っていたマフラーを隣へ寄せた。  そこで初めて、僕はもう一人、この場にいることを知った。  一蝶の横(僕からは一蝶の更に奥)、ボブカットの女性がマフラーの端を持って香りを確認していた。そういえば、この女性はよく一蝶の隣にいるなと、僕はぼんやりと思い出していた。一蝶は賑やかな場所でたくさんの人に囲まれているタイプではない。だが、必ず隣に誰かがいる印象があったのだが、彼女だったのか。自然と人払いをしてしまう一蝶にあって、傍にいる女性。  単に僕が人の顔を覚えるのが不得手であるからだろう。束の印象が薄いわけではなく、一蝶のあまりに強いインパクトに霞んでしまったのだ。  だが、僕が束をきちんと認識したのは、実はもう少し後のことだ。 「そうね… 私にはあまり香りが残っていないように思えるけど」  束は小さく首を傾げて、マフラーを一蝶へ返した。一蝶も同じように頭を傾げてしまう。どうやら二人を悩ませてしまったようだ。 「ごめん、たぶん君が言ったように、僕の鼻が良すぎたのだと思う。  隣にいる人が分からないなら、もうほとんど香りが無いんだよ、きっと」 「そう… そうね」  僕の言葉に、一蝶は軽く頷いてくれた。「ありがとう」  何に対しての礼だったのかは僕には少し意図を把握しかねたが、彼女たちは「それじゃ」と連れ立って階段の続きを昇って行った。
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