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それからたびたび、僕は一蝶と会話するようになった。といっても、僕と一蝶が会話できたのはその年の冬の間だけだったが。
彼女はどうだったか分からないが、僕にはその間だけでも十分な時間だった。一蝶という女性を識別できるようになるには。
だが、彼女を認識するたびに、僕にはやはりそのマフラーが気になってしまった。一蝶から浮き上がって見えてしまって、もはやミントブルーのマフラーが一蝶のアイコンのように見えていた。
冷たい小雨の降る日に、僕はふと一蝶に尋ねた。
「そのマフラー、気に入っているの? 誰かから贈られたとか」
僕の質問はしばしば唐突らしく、一蝶はそのたびに黒い双眸を瞬かせてから可笑し気に小さく笑う。
「いいえ。自分で買ったの。あまりに寒くて入った店で近くに置かれていたのを買っただけよ」
返ってきた一蝶の答えに、僕も内心驚いていた。彼女なら吟味するものかと思ったのだが、ただ手近のものを取っただけらしい。それだけ寒かったのだろうか。
だが、やはりそのマフラーは「市販のマフラー」ではなく、「一蝶のマフラー」であるのだ。
ああそうだ、もう一つ、このマフラーには要素がある。
「香水を付けているね」
「昔から好きな香りなの」
「どこかのブランドのもの?」
「自分で調合しているわ」
「できるものなの?」
今度こそ僕は驚いて、大きな声を上げてしまった。幸いに人の少なかった教室内で、こちらを振り返る人はいなかった。
一蝶は「できなくないわよ」と黒目を細めて笑う。
好奇心から調合の仕方を聞いたけれども、四半世紀後の僕には「なんとなくできそうだけど、たぶん僕が女の子でも積極的にやろうとは思わないな」という印象しか残っていない。
だが、これで、この「市販のマフラー」が「一蝶のマフラー」である理由が理解できた気がした。彼女はあちこちに売っているマフラーを、たしかに自分のものとしたのだ。
僕のその印象はずいぶんと強すぎて、立ち寄ったデパートで同じ柄のマフラーを見かけると酷い違和感を覚えるほどであった。「違うな」という思いが湧き立つのだ。
僕にとってその柄のマフラーは、「一蝶のマフラー」であるか、「一蝶のマフラーではないマフラー」であるか、になってしまったのだ。
およそほかの人間にはどうでもいいことこの上ないし、経済に影響もない、完全に僕の中に閉じた話しだった。
そのはずだった。
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