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1.藤田五郎
京の冬は寒い。
北は丹波高原に連なり、東には醍醐や叡山、東山が聳え、西に山地が広がるこの地は、夏に蒸し暑く、冬、底冷えする。
市街地には、新しい西洋建築が見られる昨今だが、町はまだ、格子と犬矢来を備えた家々が並ぶ、昔ながらの風景を見せる。
漸く空が白み始めた頃、道に降りた霜に革靴の跡を残しながら、一人の男が足早に過ぎる。未だ珍しい洋装は、警視官の制服。
十二月も中旬に入り、身を切る冷気が襲う。外套も着けずに歩む足取りは、しかし寒さを感じさせない。伸びた背筋に、鋭い眼光。嘗ての名を知る者ならば、帯刀するサーベルに、名刀国重を見たであろう。彼の名を、藤田五郎という。
堀川に架かる木津屋橋を東に進み、二つ目の辻に差し掛かる。南の方角に気配を感じ、右に顔を向けるが、人影はない。
「此処は……」
油小路。通りに、足を踏み入れる。数軒先にある小さな寺の、変わらぬ佇まいに、ちょうど今時分であったかと、十年前を思い起こした。
当時の彼は斎藤一といい、会津藩預かりであった新選組の副長助勤、三番隊組長を務めていた。いや、その事件が起きた時は、新選組を離れていた。
思想の違いから新選組と袂を分かった御陵衛士に、潜入していたのだ。そこで、新選組局長であった近藤勇を暗殺する企みを知り、間諜としての役目を果たすべく脱走した。そして、斎藤からの知らせを受けた近藤と、新選組副長であった土方歳三は、御陵衛士の盟主伊東甲子太郎を、近藤の妾宅に招き、その帰途を隊士に襲わせた。
更には、伊東の遺骸を七条油小路に晒し、引き取りに来た御陵衛士を、かつての同志達を討ったのだ。
さすがに斎藤は、そのどちらにも出動していない。しかし、自身の行動によって起こったことは事実である。後悔はなかった。胸が痛まぬでもないが、悔いることは、主に対する不忠になる。
「此処は、尼寺ですよ」
過去に想いを巡らす藤田の隣に、青年が並んだ。年の頃は十七、八であろうか。草臥れた羽織袴に、鼻緒の褪せた日和下駄。整った顔立ちは青白く、眼鏡の奥に、薄墨色の瞳が見える。私学校に通う書生かと推察した。
「本光寺、と云うんです。禁裡御陵衛士の盟主であられた、伊東先生が殉難された地です」
「中々に、詳しいな」
宗派を示す門派石を見つめて語る書生の言葉に、心中を見透かされた気がした。
「茨城の、いえ志筑の出ですから。貴方こそ、先生を御存じの御様子……」
「古い、知り合いだ」
藤田は短く答え、早々に立ち去ろうと体の向きを変えた。もう少し、この場所に留まりたい思いがないわけではないが、見ず知らずの書生に、自身の過去を語る気にはならなかった。ましてやそれが、伊東を「先生」と呼ぶ者とあっては。
『相変わらずつれないねぇ、斎藤君は』
背後から、いるはずのない、しかしよく知る声が聞こえた。思わず振り返った藤田の眼前で、青年の口が動く。
『折角来たのだから、もう少し、ゆっくりすれば好いものを』
そうして彼は、本光寺の門派石にその姿を消した。
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