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「あの、すみません」
不意に声をかけられ、編み物に没頭していた妻がはっと顔を上げる。
「隣、座ってもいいでしょうか。昼を食べ損ねてしまって」
スーツ姿の青年がそこに立っていた。遅い昼休憩だろう、コンビニの袋を手に下げている。周囲のベンチは母親の集団が座っていて空きがない。妻はこだわりなく笑いかけた。
「ええ、連れもいませんので気にせずどうぞ」と二人掛けのベンチの一方を譲った。
すみません、と青年が頭を下げ、私の体をすり抜けてベンチに座った。
「……まぁ、仕方ないよな」
そう、ひとりごちる。死んでしまっているのだから気付いてもらえないのは仕方ない。私は青年の背後をすり抜けて妻の反対隣に移動した。
「私はこっちに立っているからなっ」
妻に私の存在が見えたことは無いのだが、いつでもアピールせずにいられない。
「よろしければお茶をどうぞ」
まだ使っていないコップを出して妻は青年にほうじ茶を渡した。ありがとうございます、と人の好さそうな笑顔を反す青年に、見当違いだと自覚しながらも嫉妬せずにいられない。妻のお気に入りのほうじ茶は美味いのだ。私だってそのお茶が飲みたい。
妻が編み物を再開すると、青年がお茶をすすりながら「綺麗な色ですね」と話しかけてきた。
「旦那さんのでしょうか。いや、明るい色だからお孫さんの分ですか?」
「ええ」と妻は嬉しそうに返答し、「少しお話相手をして下さるかしら?」と問いかけた。
「もちろん」
「嬉しいわ。主人が亡くなってから独り言ばかり増えてしまって。たまには人とおしゃべりしなくちゃいけないって思ってたんですの」
青年は嫌な顔一つせず聞いてくれる。
「これは孫のなんです。子供は明るい色がいいと思って。主人のはね、こっち」
鞄から深い紺色のマフラーを取り出した。
「この色が好きだったんですよ」
「持ち歩いていらっしゃるんですか?」
驚いた様子の青年の言葉に、妻は少し寂しそうな顔をする。
「本当は手放すべきなんでしょうけれど、どうしても出来なくって」
「……仲がよろしかったんですね。羨ましい」
「こうして持ち歩いているからなのかしら、何だか今でも主人がそばにいてくれるような気がするんです」
あぁ、と私は言った。「ここにいるぞ。いつもそばにいるからな」
「もしそうなら、素敵ですね」
ええ、そうなら本当に素敵――と妻は笑う。
大丈夫だ。……お前がこちらに来るまで、そばで見守っているからな――。
そんな風にしみじみした時だ。
「でもね」と唐突に力を込めて妻が言った。
「もし傍にいてくれたならそれはとても嬉しいのだけど、少し困ってしまうんです!」
……え?
「えっ?」
思いがけず私と青年の驚きが同調する。
「私ね、姉さん女房だったんです。年下の夫というのもね、私を引っ張って行こうとする姿が可愛らしくて幸せだったんです。けれど無い物ねだりかしら、年上の男性への憧れもありまして」
「はあ」
「なので主人には早く成仏して転生してもらわなくては困るんです」
私のマフラーを握りしめるような勢いで力説する。
「生まれ変わったらご近所の素敵なお兄さんになってもらって、それでまた恋を始めたいって思ってるんですもの!」
「……はあ」
「いかにも年下の娘っぽくハートの模様なんて入れて、それで嫌がられたりとかしてもめげずにアタックをするの」
「……」
「そうやってね、またあの人と一緒に過ごすんだって夢を見ているんです。ふふ、おばあちゃんがみっともないかしら」
マフラーを力いっぱい握っていた手をほどいて少し照れて妻は言った。気圧されていた青年は「いいえ」と答えた。そして腕時計を見て立ち上がる。
「もう行かないと。……何て言うか、ごちそうさまでした」
ほんの少し苦笑した様子で、青年は妻にコップを返して去っていった。
そして一方の私はといえば、早く生まれ変わらねばならん! と平和な午後の公園を後にして、慌てて天への道を昇り始めたのだった。
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