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古ぼけた木造の駅。
古ぼけた壊れかけのピアノ。
そこで一人で、鍵盤を叩く。
人通りはある。物珍しげに覗き込んでくる人もいる。
でも誰もが通り過ぎていく。
一人で音を鳴らし続ける。
いつの間にか、同い年くらいの子供が一人、傍らに立っていた。
私のピアノを聴いている。
目を輝かせ、耳を澄ませて。
誰かが聴いてくれている。
誰かが――
■
少女が目を覚ますと、視界が白一色に閉ざされていた。
彼女は高校一年生で、名前は渡会風香という。
今は、八月のある日の朝――まもなく夜明け。
風香が体を起こす。
はらはらと、顔に乗っていたものが落ちた。中折のA3サイズの純白の紙、横に幾筋もの細い線が走った、楽譜用の五線紙。
周囲には、数十枚の五線紙が散らばっていた。風香の顔以外にも、高校の制服を着た体の上に何枚も乗っていた。
「まだ、そんなに暑くないな……」
寝不足の上寝ぼけきっているせいで、頭もろくに働かないまま、そうつぶやく。音楽室は三階にあるため、窓を開ければ涼しい風も入れられるし、地上からの余分な喧噪も届きにくい。しかしまだこの時間では、登校している生徒はほとんどいないだろう。
その時ようやく、すぐ近くでピアノが鳴っていることに風香は気づいた。
風香は思い出す。そうだ、自分が夜を明かしたここは、つい先日卒業した中学校の音楽室だ。当然ピアノくらいは置いてある。
ばっと首を巡らせると、かつて通った音楽室の片隅で、誰かがピアノを弾いていた。
しかし、その風貌が異様だった。黒いクラシックピアノ越しにこちらを向いているその顔には、包帯がぐるぐる巻きにしてある。ちらりと見えたところでは、手袋までしているようだった。
風香は危うく悲鳴を上げそうになった。何とかこらえてよく見ると、人影はどうやら男子で、制服を着ているようだ。この中学の生徒だろうか、と一瞬考えたものの、あれはここの制服ではない。
逃げるべきだろうか、と風香は体の重心を持ち上げる。幸い、ドアまでは風香の方が近い。
しかし、不審者にしては――間違いなく不審者ではあるのだが――、あまりにもピアノの音が流麗過ぎた。思わず聴き入ってしまうほどに。
「誰? ……なんでこんなところにいるの?」
自分を棚に上げて、そう聞いてみる。
「起きたか。さて、誰だろうね」
幼さのある少年の声でそう言うと、ミイラ男は、延べ棒のように細長く折りたたんだ新聞をぽんと投げてよこした。いち早く手に入れた、今日の朝刊らしい。
見出しを見ると、「若き天才ピアニスト失踪」「不世出の奏者が、コンクール会場から忽然と」といった文字が躍っている。昨日起きた「事件」のようだ。
風香は、まじまじとミイラを見つめた。見覚えのある背格好。包帯の隙間からわずかに覗いている目の形にも特徴がある。一般人はともかく日本のピアノ関係者なら、まずその顔を目にしたことがあるだろう。もちろん風香も見覚えがあった。
「いやあ、失踪したらしいね、その新聞の人。有名人なのにねえ」
「あなた……どういうつもりで、ここにいるの。……なんでこんなところに来たの」
軽妙に話すミイラに、狼狽を隠せない風香。正体が分かったのと、「彼」が同い年であることはピアノ奏者として風香も聞き知っているので、必要以上の気後れはしないで済んでいるが。
「さて、なんででしょうねえ」
「その、包帯と手袋は何? ケガとかではないように見えるけど」
「ただのマスクさ。芸能人でもないのに自意識過剰と思わないでくれ、万が一を防ぐ用心こそが重要なんだ」
「不信すぎて余計に目立つと思うけど……」
「もうしばらくは大丈夫だよ。当直の先生には話を通してある。君もそうだろう?」
少年は立ち上がる。風香も立ち、二人は少し離れた椅子の上にそれぞれ座って、向かい合った。
「……新聞って、大げさに書くのね。まだ一日かそこらで、失踪だなんて」
風香は、じっとりとした半眼でミイラ少年を見据えた。
「未成年だからね。人知れぬ家出ならともかく、東京のど真ん中で、国内最高峰のコンクール本戦なんてものをすっぽかしていなくなったんだもの。そりゃすぐに騒ぎになるよ。今回は八人の若き同年代奏者が競うっていうんで、ずいぶん煽って宣伝してたみたいだし」
「他人事みたいに言うじゃない」
「君は、あまり大会とかには興味ないタイプなのかな?」
「……まあね」
「出ても勝てないからかな? 君の腕では」
「舐めないでくれる」
風香は立ち上がると、ピアノまで歩いて行った。方にかかる黒い髪を軽くさばいて、座る。
鍵盤の上を、風香の指が踊り始めた。
ブラームス。
ただし、いくらかのアレンジが加わっている。これは風香の解釈ではなく、近年音楽界をにぎわせている人気奏者の演奏をまねたものだった。
ミイラ男が、へえと肩をすくめる。
「イルトーン・ハイセロウを完コピか。確かにやるね」
「言っとくけど、こんな弾き方したの今が初めてだから」
「いきなりでこれか。ますますやるね。ピアニストってのは実際、アマチュアでも化け物ぞろいだよな。君がそうであるように」
「そうね。……でも、化け物って孤独よね」
風香はピアノから離れ、窓へ向かった。大きな窓は二段階のストッパーがあり、ふたつとも外すと全開する。風香はそれを開け放って、風を入れた。
「君」
「何?」
「危ない」
「うん」
その時、少年に背を向けて窓の外を見ていた風香の耳に、小さな衣擦れのような音が聞こえた。
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