鍵盤に踊るは夢の末裔

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 振り向くと、ミイラ男は、顔の包帯を解いているところだった。端正な顔に、色素の薄い髪、やや吊り上がった特徴的な双眸がすっかりあらわになる。  風香はその顔を、何度も雑誌やWEBの記事で見たことがあった。若き俊才の少年ピアニスト。 「どう?」 「変な顔」 「ええ。初めて言われたなあ」 「ちょっと何、近い近い近い」  少年は風香に歩み寄り、その腰に手を回した。 「何をする変態」 「危ないよ。ここ三階だろう」 「いや近い近い、その方が落ちるってば」  身をよじる風香から、少年がぱっと離れた。ただし、二歩だけ。二人の間を、三階分の高さの風が吹き込んで流れる。 「あなたハーフだっけ。いいよね、人との距離縮めるの上手そうで」 「そういうのは苦手?」 「さっきの話の通り。私たちって孤独よね。でもそれでいいよ、私は一人で弾いていたかった。一人で散々没頭してピアノを弾いてたら、段々周りが賑やかになって来て、私の扱いが変わったのは最初は親。次に学校の友達。気が付けば、ピアノと関係のない人は周りからいなくなってた。ピアノを弾いているのは私なのに、その私の世界がピアノに依存してる。その心地悪さが、もう限界なの。……化け物をやめたい」  少年は、ゆるやかに浮かべていた笑みを初めて収めて、告げた。 「……それが許されない?」 「そう。ここは私が生きていたい世界じゃなくなった。もうピアノ弾きたくない。あんなもの、好きで弾いてる人なんているの? でも、ピアノなしで生きていく方法なんてわからない。ピアノを弾かない私を、両親も、先生も、周りもみんな許容してくれると思う。でも、私はそんな許容の中で生きるのは嫌なの。……それは、こととは、絶対に違うから」  風香は、重心を少しずつ移していった。少年には悟られないように、こっそりと、後ろへ。 「ピアノを弾いても弾かなくても、幸せになんて生きていけない。そんな人は、どうしたらいいと思う? 楽になる方法を、ずっと探してた。昨日一日ね、ピアノを弾くのをやめたの。習い出してから、初めて! そうしたら、こんなに体が軽い。だから、たとえばここから落ちても、羽毛みたいに、大丈夫じゃないかなって感覚があるの」 「……昔から見ていた。君がそういう目をして演奏する時は、とてつもないものを弾くけど――正視に耐えない。最近はそれが増えた。だから心配で、ここまで来たんだ。君が五線紙に埋もれて静かになっているのを見た時、手遅れかと思って、心臓が止まりそうになったよ。その窓から離れるんだ、度会風香」  再び、強いて笑みを浮かべた少年に、風香はその後ろを指差しながら言った。 「あ、先生」 「え?」  少年が振り返り、風香に背中を向けた瞬間。  風香が床を蹴った。  とっさに再度振り返って伸ばした少年の手が、しかし後ろ向きに窓の外へ飛び出した風香の体には触れられずに、宙を泳ぐ。  上半身、次いで下半身が窓枠から外に出た。三階の高さを渡る風に、風香の全身が冷たくさらされる。  一瞬だけ間を置いてから、重力が風香の体を地面に引きつけ始めた。  もう、落下を止める方法はない。真下にはコンクリートの通路がある。頭から落ちれば、それで、嫌なことは全て終わる。  だが。  風香の体にいきなり激痛が走った。 「いたっ!?」  お腹の辺りだ。何か、輪のようなものが、激しく風香の腹部を絞めつけている。 「ぐ、ぐべっ!?」  何が何だか分からないまま、いぎたない悲鳴を上げた時には、風香の体は再び窓枠を通って戻り、音楽室の中に引っ張り込まれていた。腕を広げて待ち構えていた少年の胸に、すとんとその体が収まる。 「ぐ、ぐえっ!? 苦し……げふっ! おえっ!」 「慌てないでね。今ほどいてあげる。……様子がおかしかったんで、さっき腰に手を回した時に、僕の包帯を命綱代わりに巻いておいたんだ」  離れた後もすぐ傍にいたから気付きにくかったろう、と少年が笑う。 「こ、これ、包帯!? 伸縮性がなさすぎない!?」 「そのお陰で助かったんだろう。まあ、確かに本当の包帯じゃなくてただのさらしだけど。ちゃんと二重に巻いたし」 「いつの間に……」  ようやくお腹を解放された風香が、せき込みながら椅子に座った。 「これに懲りたら、莫迦な真似はよすんだね。せっかく――」  少年は、さっきの朝刊を広げた。  若き天才ピアニスト失踪。不世出の奏者が、コンクール会場から忽然と姿を消した、十五歳の神童――<度会風香>。 「――せっかく、こんなにも世の中から称賛されているピアニストなのだから。君は」 ■
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