鍵盤に踊るは夢の末裔

3/4
前へ
/4ページ
次へ
 朝日が昇って来ている。  昇降口の方から、生徒たちの足音や挨拶の声が響き始めた。だが、この音楽室まではまだ遠い。 「私が最初にピアノを人前で弾いたのはほんの小さな頃で、うちの近くの、駅のピアノだった」 「ほう」  二人は、最前列と二列目の椅子に座り、机を挟んで向かい合っていた。前の席に座っている少年が、真後ろを向く形で着席している。 「なぜか、木造の古い駅舎の待合室に、キーボードが置いてあったの。待ち時間の暇つぶし用に、駅員さんが置いたんだろうけど」 「ふむ」 「それまでも家で練習はしていたし、上手だって褒められもしてた。だからそれなりには弾けてただろうけど、人が足を止めるほどじゃなかったのね。子供の演奏を物珍しさで覗き込む人はいても、耳を澄ませてくれる人はほとんどいなかった。でも一人だけ、私のすぐ横で、ずっと聴いてくれた男の子がいたの」  少年は、促すようにうなずく。 「それが嬉しくて……家族やピアノ教室の先生じゃなくて、全くの他人の子が、私のピアノに聴き入ってくれたのが、本当に嬉しくて。それから、嫌いなレッスンも真面目に通うようになった。ずっとそんな楽しさが、どんなに辛い分だけ返ってくると思ってた。でも……そうじゃなかった」  風香はうつむいた。  これまでも時折、孤独感が高まると、自傷行為に走ることはあった。けれど、今日ほどのものは初めてだった。それも、人が見ている前でも構わずに。 「私、もうだめかなあ。もう普通に、ちゃんと弾けないのかなあ。私別に死にたいんじゃなくて、逃げたいだけなんだけど。もっと……頑張ったら頑張っただけ、楽しくなれる場所に」  鼻の奥が痛くなる。さすがに、泣き顔は見られたくない。 「度会風香。その男の子の名前、知ってる?」 「……さすがに名前は知らない」 「名前は、トリオネ・桜真木(さくらまき)だ」 「は?」  風香は、きょとんとして顔を上げた。 「ああ、桜真木トリオネかな」 「日本風に言い直して欲しかったんじゃないけど。……それ、よね? 私と同じ、昨日のコンクールの参加者の……」 「僕をご存じとは光栄だね。そう。その駅の子は、この僕、トリオネくんさ」 「そりゃあなただってピアノ界隈じゃ俊才って有名人だから、顔と名前くらい……って、嘘でしょ……?」 「どうして?」 「全然顔が違う。……からかってるの?」 「そう。確かに、僕はその子本本人じゃない。でも、その子は僕なのさ」 「全然分かんない」 「そして、僕以外にもその駅の子はいる」 「本気で分かんない」  少年――トリオネは、芝居がかった動きで立ち上がった。 「いいかい。昨日のコンクールは、前代未聞の大騒ぎになった」 「私が一人いなくなったくらいで? 結局、優勝したのは誰なの? あなた?」 「記事をよく読んでご覧」  そう言われて、改めて風香は朝刊に目を落とした。細く畳まれていた紙面を、ぱりぱりと広げる。 「……え?」  さっきはまだ薄暗く、文面も落ち着いてよく読んでいなかった。  若き天才ピアニスト「ら」失踪。不世出の奏者「たち」が、コンクール会場から忽然と姿を消した、十五歳の神童、度会風香、  片村智咲(かたむらちさき)、桜真木トリオネ、大曽良裕也(おおそらゆうや)鴨見俊(かもみしゅん)柊琴乃(ひいらぎことの)三ツ村(みつむら)あゆみ、(ちがや)クリスタ――その全員が。 「全員!? 八人とも!?」 「君、ニュースとか昨夜から全然見てないだろ」 「だって、スマホの電源入れたら親がうるさいって分かってるもの。一晩くらいなら、うちの親警察なんて呼ばないし」 「……君のご両親の危機感については気にかかるところはあるけど、とにかく。そういうことさ」 「どういうこと?」 「君以外の七人全員が、君のいないコンクールには意味がないと判断した。僕らの世代のピアニストは、君という最高峰と比べられるのは、逃れられざる宿命だ。逆に言えば、君を越えようと目指す以上、君がいないと僕らの戦いは成立しない。だから――」  トリオネは少し肩を揺らして、続けた。 「――だから、皆で君を捜索した。僕らは皆、君のピアノに惹かれた、駅の少年の末裔みたいなものなんだ」  新聞を掴む、風香の腕が震えた。想像だにしないことだった。  自分が知らないうちに、こんなことが起きていたなんて。大騒ぎにもなるはずだ。 「君が思うほど、君は一人ではなかったってことさ。言っておくけど、爽やかな友情ばかりだなんて思わないでくれ。怒り、嫉妬、悔しさ、そんなものも全部、僕らは昨日、いっぺんに抱えて会場を飛び出した。君がいないことを許せなかった。みんな、君を目指して今日まで鍵盤を叩いて来たんだから」 「だって、……捜索って、そう、桜真木くんはなんでここが分かったの?」  思えば、風香が彼に最初にした問いはそれだった。なんでこんなところにいるの? と。 「確証があったわけじゃない。たまたま、ここに来たのが僕だったというだけだ。言ったろう、皆で捜索したと。君の中学、ピアノ教室、一応実家、兄上の大学――思い当たる場所それぞれに、僕らは散ったんだ。僕が『当たり』だというのは、さっき皆に連絡しておいたから、安心してくれ」 「私の、そんな……個人情報をなんで」 「まあ、有名人だからね、君」  トリオネが肩をすくめた。 「……でも、私がその、馬鹿な真似をするって、あなたは見当がついてたの? そのためにさらしを? 手頃なロープなんてすぐに見つからないから、その代わりなんでしょう。どうして、分かったの」 「え? いや、これは純粋に変装のためだけど。君の様子がおかしいことに気付いたのはついさっきだし、ほどけばロープ代わりになるっていうのはその場の思いつき」 「あ……そう」  どうやら、変人であることは確からしい。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!

5人が本棚に入れています
本棚に追加