見えない悪意

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 まぁ君おはよう。  この声が聞こえると、俺は反射的に顔をしかめてしまう。  俺の事を“正弘(まさひろ)”でも“マサ”でもなく“まぁ君”と呼ぶのは、家の向かいのアパートに住む、織田という婆さんだ。  数ヶ月前にアパートに越してきて、俺が中学へ登下校する時に、必ず外へ出て織田さんが声をかけてくる。  まぁ君おはよう。  まぁ君おかえり。  ニコニコ笑いながら、それだけを言う。  はじめはゴミ捨てや、表の掃き掃除のついでに鉢合わせするのだと思っていた。  しかし、部活で朝早く家を出ても、テスト期間で不規則な時間に帰宅しても、必ずアパートの前で笑顔の織田さんが待っている。  流石にこれは偶然ではない。そう確信したのは、夕食後にパックの牛乳を一気に飲みほして、母さんに「新しい牛乳を買ってきなさい」とコンビニに行かされた時だった。  叱られて渋々玄関を出かかった時に、ジャンパーのポケットに財布が入っていない事に気付いた。  ああなんだよ。独り言で悪態を吐き、大きく開いたドアを再び閉めようとした。  その時、向かいのアパートでドアがほんの少し開いている部屋があった。  猫が通れる程度の隙間から、室内の光が漏れている。  あの部屋のあの影は……織田さん。  表情までは見えなくても、こちらを伺う様子は分かった。  それに気付いてしまってから、気味が悪くなってしまった。  母さんに訴えても、「気のせいよ。挨拶は寂しい一人暮らしの老人が、正弘を孫に見立てて可愛く思ってるのよ。それくらい我慢しなさい」と、逆に怒られた。  母さんは見ていないから知らない。  織田さんが挨拶をする時の表情を。目を。  今はただ、顎を揺らす程度の会釈を返して、織田さんの前を早歩きで通過するのが、俺の唯一の対処法となっていた。
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