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深見咲耶花は、母方の祖父母の初孫で、10年間一族の末っ子だった。
母の弟である叔父は、物心ついた時からずっと咲耶花の”お兄ちゃん”だった。膝に乗せてもらう権利も、肩車してもらう権利も、自分だけのものだと思い込んでいた。
だから、赤ちゃんのお父さんになってしまった時はとてもショックだった。しかも、初めて会ったイトコは、何だかよく分からない生き物だった。頭が小さくて、それよりもっと体が小さくて、赤くってシワシワしていた。
赤ちゃんって、もっとふっくらしてるんじゃないの? これ本当に人間?
困惑を通り過ぎておびえる咲耶花を置いて、大人達は魅月を囲んで笑っていた。
次に会った時、魅月はもちもちふっくらに進化していた。「赤ちゃんだ……。」と当たり前のことをつぶやくと、ツボにはまったらしく、父が涙が出るほど笑っていた。
ぷにぷにでかわいくなったけれど、それでも咲耶花は魅月が嫌いだった。叔父も叔母も、赤ちゃんのものになってしまった。大好きだった祖父母の家にいても、自分がみんなの端っこに除けられてしまったような心地がした。
けれど、魅月が歩き始めると、そんな気持ちはどこかに行ってしまった。家族総出のお出掛けでは、咲耶花がいつも魅月の手を引いた。自分より高い体温に、一人っ子だった自分にも弟が出来たのだと、うれしくなった。
咲耶花が魅月を構うほど、彼も咲耶花を好いてくれた。
咲耶花が座っていると、自分で膝に乗り上げた。お煎餅をあげると、咲耶花自身の真似なのか、口に押し込もうとしてきた。
言葉を覚えると、あれがイヤ、これがイヤと繰り返すようになった。服を選ぶのも、靴を履くのも、自分でやりたがるようになって、大人の手から逃げた。それでも、出掛ける時に咲耶花が手を差し出すと、ちゃんと握り返してくれた。
ある二月の夜、叔母から電話がかかってきた。叔母はすぐに魅月と替わった。彼の第一声は「チョコ!」だった。行ったり来たりする話をまとめると、咲耶花は魅月にチョコレートを渡さないといけないのだ、ということだった。幼稚園でバレンタインデーの存在を知り、いてもたってもいられなくなったらしい。
中学卒業と同時に、咲耶花の友人に彼氏が出来た。話題の半分くらいが彼氏のことになったうえに、遊ぶ頻度が減った。単純な寂しさと、置いてけぼりにされたような悔しさがあった。居間の畳に懐いてぐだぐだ愚痴っていると、小さな手が頭をなでてくれた。「オレがずっと、あそんでやる。」と男らしい宣言を頂いたので、公園に繰り出した。
魅月は牛乳が苦手だった。ある週末、夕食をごちそうになった後、咲耶花が魅月とくつろいでいると、テレビで歌番組が始まった。デビューしたばかりのアイドルがバク転を披露している。咲耶花はその迫力に驚いた。「あの人、脚が長くてかっこいいね。」次の日から、魅月は頑張って牛乳を飲むようになっていた。
そんな素直でかわいい魅月が。魅月が自分を無視して逃げて行った。
先程は、いったい何事かという衝撃の方が強かった。改めて思い返すと、急に心にダメージが入った。
手に力が入らなくなって、握っていた新聞紙が、ずりぃーっと窓ガラスを滑った。いやいや、と頭を振り、力を込めて窓を磨く。
大丈夫。祖父とケンカして虫の居所が悪かっただけだ。自分だって小学生の頃は、友達とケンカをすると両親の前でもぶすくれていた。
だから、クールタイムを挟めば、魅月はいつも通りのはずだ。今は任務を完遂するのだ。
***
途中におやつ休憩を挟みながらも、家中の窓をピカピカに磨き上げ、夜。ツヤツヤほかほかの白いご飯と、醤油の匂い香ばしい生姜焼きを囲んだ夕食。
魅月は、いつも通り咲耶花の隣に座った。しかし、つーんとした態度で誰とも目を合わせない。ご飯と豚肉、千切りキャベツを黙々と口に詰め込んでいる。
おやつをもらったハムスターのようだ。
「ごそさま!」
彼は自分の皿を空にすると巣穴、ではなく自室のある二階へと帰ってしまった。叔父がため息をつく。
「サヤカぁ、お前今度は何言ったの?」
「私っ!? 私じゃないよ、おじいちゃんだよ!」
叔母や祖母の話を聞くに、午前中の魅月は実に良い子で、クリスマスツリーの片付けを手伝ったという。それが祖父とのビデオ鑑賞を飛び出してからこの態度なのだから、真っ先に咲耶花に理由を求めるのはおかしい。
叔父の目が、ぽりぽりとピーナッツを食べている祖父に向く。
「親父、何言ったんだよ?」
「普通に話してただけだ。ほら、一緒に何とかファイブを見とったら、記念回だか何とかで、昔サヤカが好きだったのが映ったんだ。」
「ちょっと。」
嫌な予感に、咲耶花は思わず声をあげた。もちろん、ここで遮ったって祖父が昼間こぼした言葉を回収することは出来ない。
「懐かしかったんでな、サヤカがこの青いのが好きだったって話しただけだ。」
「そ、それだけ?」
それなら特に問題はない。ほっと胸をなで下ろす。
「ああ。いっつも、咲耶花が青いタオルを首に巻いて遊んでたって。」
「ぐぅ……っ!」
「あら、懐かしいわねぇ。」
咲耶花がうなる横で、祖母がのほほんと笑みを浮かべる。叔母が続いた。
「ブルーホークね。私はホワイトピジョンやらされたわねー。」
「遊ぶ度に、咲耶花にタオルケット巻かれてたわねぇ。」
「そうなんですよ。でもあれ、すぐ外れちゃうし動きにくかったんで、私、ここにお邪魔する時はカバンに白いポンチョ入れるようになりました。」
「ああ。そういえば、いつの間にか。」
「実家に置いて来ちゃったんですよね。まだあるかしら。」
「今やってるののピンクの子も、似たような服着てるねぇ。」
「サヤカちゃん、着る?」
「着ません。」
話題がぐりっと返ってきたので、咲耶花は直ぐさま首を横に振った。顔を隠すようにうつむく。まだ両親がいなくて良かったと思う。あの二人も加われば、大人達は延々と咲耶花の歴史を語っただろう。
覚えていることを語られるのは気分が悪い。自分は何でそんな馬鹿なことをしたのだろうかと、恥ずかしく思ったりする。
覚えていないことを語られるのは居心地が悪い。自分は本当にそんな馬鹿なことをしたのだろうかと、疑わしく思ったりする。
アルバムにたくさん残った写真と、叔父と叔母が大好きだった自分の気持ちから、逃れようのない事実なのだろうと観念している。魅月の目に入る前に、あれらの写真をどこか奥深くに封印するのが咲耶花の目下の野望である。
撃沈しながら咲耶花が決意を強くしていると、叔父が再び口を開いた。
「したのはその話だけ? サヤカの話だけ?」
「その頃の話を他にもした気がするが、まあ、サヤカの話だったな。」
祖父がうなずくと、叔父が顔をしかめた。次の黒歴史が掘り返される前にこの場を去ろうと、咲耶花は小鉢のほうれん草をせっせっと口に運んでいた。叔父の顔を見て、首をかしげる。叔父の目がこちらに向いた。
「やっぱ、サヤカが何か言った?」
「言ってないよ。こっち来てすぐあれだったもん。」
最後の一口を飲み込む。咲耶花はお茶のグラスも空にすると、自分の食器と魅月が残した食器を重ねた。グッと足に力を入れて、イスを押しながら立ち上がる。
「まじかー。じゃあ別件か?」
「何かあったの?」
叔父ががしがしと頭をかく。祖母のグラスにお茶を注いでいた叔母が、叔父の顔を伺う。その後ろを回って、咲耶花はシンクへ皿を運んだ。
「さっき、店の前をミツキが通ってなぁ。……大嫌いって言われた。」
「え。何を?」
声に出した叔母だけでなく、咲耶花も祖父母も不思議そうに叔父を見やった。固いピーナッツをかんだように、叔父は顔をゆがめていた。
「俺を。」
「えぇっ!?」
「それは悲しいわねぇ。」
声をあげたのは咲耶花だ。持ったままだった皿がすれてガチャリと音をたてた。祖母はグラスを軽く傾けたまま、眉をハの字にしている。
魅月は、言葉にはしないが父親が大好きなはずだ。
幼稚園の頃に描いた”将来の夢”だって、描かれていたのは自転車とスパナを持った魅月の姿だった。あの自転車は持ち上げていたのか、ただ手の近くに描いてあったのか、未だに判別がつかない。その横には、叔父と祖父がいた。三人とも、首にタオルを掛けて、手袋をして、にこにこ笑っていた。
彼は真っ直ぐに父親の背中を追っていたはずなのに。
「急にどうしたのかしら。」
叔母も不思議そうだ。叔父が悲しそうにうめいた。
「うぅ。てっきりサヤカが、ファザコンの男はないわ、とでも言ったのかと思ったのに。」
「いったいどういう話の流れでそうなるのよ。」
咲耶花はやっとシンクへ皿を置いた。蛇口から細く水を出して手を洗う。
「父ちゃん何かしたか? って聞いても、そのまま走ってっちゃってな。サヤカぁ、理由聞いてきてくれよぉ。」
「うーん。」
流し下のタオルで手を拭いながら、首をひねる。自分も現在進行形で無視されているのだけれど。怒りの対象が叔父ならば、落ち着いてきたところで口をきいてくれるだろうか。
「まあ、聞けたらね。ごちそうさまでしたー。」
大人達に頭を下げて、咲耶花はダイニングを出た。
***
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