そして肴にされる

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 ケータイの画面の中には、一筆書きの角張ったハート。指で真ん中をつつっとなぞると線が引かれて、ハートが二分される。  それで、えーと、次はどこを切れば良いんだ。  三人掛けのソファに、咲耶花が仰向けに転がっている。片側の肘掛けにフカフカとした厚みのあるクッションを立てかけ、それに頭を預ける。伸ばした脚が交差していた。つま先がリズムを取るようにぷらぷら揺れる。  父が見れば、だらしがないと叱るだろうが、生憎来るのはまだ先だ。応接用の豪奢なソファとマーブル模様のテーブルも、年明けまで仕事の予定はない。  ここは小さい頃からのお気に入りの場所。家族はみんな心得ているので、入浴の順番が回ってくれば、呼びに来てくれる。  ぎゅっと眉を寄せて、手の中の画面をにらむ。迷いを体現するように、右手の人差し指がくるくる回る。夢中になり過ぎていた。敵の接近に気がつかぬほどに。  どすんっと腹部に重みが掛かった。驚きに緊張した咲耶花の体が、スプリングの反動でぐらぐら揺れた。中途半端に浮かせた自分の腕の間から、咲耶花は相手の姿を認める。くの字に曲がってソファに沈んだ咲耶花の腰に、魅月が伏せるようにしがみついていた。  押しつけられたほほと、シャツを握る手から、ぽかぽかといつもより高い体温が伝わってくる。着ているのはパジャマだ。水色の地に、丸っこい自動車があちこち走っている。  魅月が風呂から上がったのなら、そろそろ咲耶花の番のはずだが、呼びに来たにしては様子がおかしい。口をききたくないから、タックルしたのだろうか。  画面を見ると、先程の弾みで触れたのだろう、変なところに線が引かれていた。やり直しボタンを押して、一つ前の手順に戻す。魅月の、まだ湿っぽい頭をなでた。動く気配がない。咲耶花が上半身を起こすと、小さな手にぎゅうっとさらに力が込められた。  咲耶花はわざと唇をとがらせた。 「ちょっとー。お姉ちゃん、立てないでしょー?」  魅月は、不満があればすぐ言う子だ。それでも要望が通らなければ、じぃっとにらんでくる。今日は、最初の驚いた目を見て以降、全然目が合わない。 「いったいどうしちゃったの。ちゃんと言葉にしてくれないと、お姉ちゃんもパパも分からないよ。」  パパ、という言葉に魅月の頭がかすかに揺れる。しばらく待つが、反応がない。咲耶花は、ケータイをテーブルの上に伏せた。 「とーちゃんなんて、だいっきらいだ。」  ぽつりと、小さな声が落とされた。不満そうな響きは、前髪の奥にぶすくれた顔を想像させる。 「そう? じゃあ、お姉ちゃんがパパもらっちゃおうかな。」  咲耶花のからかいに、ぱっと魅月の顔が上がった。ぎゅうっと口をへの字に曲げていた。眉にも、まぶたにも、顔の全体に力が込められている。  アルバムの中で、自分も同じ顔をしていた。赤ん坊の魅月と、それを抱いた叔父の隣で。  ぐぐっと眉を寄せたまま、魅月が再び口を開いた。 「とーちゃんは、すいようび、ずっとごろごろしてるぞ。」  叔父と祖父は交代で休みを取っているが、水曜日は店の定休日だ。部品など何かの取り引きがなければ、祖父は祖母を連れて買い物に行く。 「そうだね、お休みだもんね。」  咲耶花がうなずくと、魅月はさらに眉を寄せた。眉間にしわが刻まれている。 「よる、かーちゃんにかくれて、ラーメンたべてたっ。」 「おにぎり食べてたこともあるよ。」 「ビールのむと、うざい!」 「それはうちのお母さんも一緒だねー。」  なぜ急に父親のネガキャンを始めたのだろう。不思議に思いながらも、取りあえず思いつくまま咲耶花は打ち返す。  指先が白くなるほど力を込めて、魅月がぎゅうぎゅうとシャツを引っ張った。 「オレらと やすみちがうから、けっこんしても、いっしょに でかけらんないぞ!」 「結婚?」  内容が急に変な方向に曲がった。受けきれず、ついオウム返しになってしまう。咲耶花が眉をひそめたからだろう、反対に、ぱっと魅月の顔が明るくなる。 「そう! とーちゃんと、けっこんしないほうがいい!」 「ひどいこと言うなぁ。」  苦笑する。叔母が聞いたらどう思うのやら。案外けらけら笑うのだろうか。 「パパにはママがいるでしょ。他の人と結婚したりしないよ。」  一体全体、どこからそんな心配が持ち上がってきたのやら。  魅月の勢いが削がれる。しゅんっと眉尻が下がる。 「でも、じーちゃんが……。」 「おじいちゃん?」 「……ねーちゃんは、とーちゃんがすきだって。」  咲耶花はぱちぱちと目を瞬かせた。  確かに、叔父のことは好きだ。父や母と同じくらい。だって、本当にたくさんたくさん遊んでもらったのだ。  幼い頃の記憶にはいつも叔父がいる。シマウマに餌を握ったまま渡したために、手をはまれた時も。子供用のジェットコースターに何回も乗りたがって、大人達をグロッキーにさせた時も。  そこまで思いを巡らせて、咲耶花はふと思い出した。大人達が一二を争うほど繰り返す、あのエピソードを。 「もしかして、私が叔父さんと結婚するって言った話?」  魅月がまた唇を引き結んだ。くっつきそうな程眉を寄せて、じぃーっと咲耶花を見つめている。真実を見透かそうとしている。  真剣なその目を見つめ返しているうちに、咲耶花の口元が緩んだ。ぶふっと息がもれる。大きなつり目がぱちりと瞬く。それをのぞき込みながら、咲耶花は口を手で覆った。 「やだ、真に受けたの? それで、お姉ちゃんが本当にパパを取っちゃうと思ったんだ?」  笑っちゃいけないと思うのに、抑えられない。くくくっと肩が揺れた。 「それね、小さい頃の話だよ。ミツキが生まれるずーっと前。ふふっ。本当に好きだったわけないじゃない。まだ5歳だったんだから。」  つり目が大きく見開かれる。それまで不思議そうにしていた幼い顔が強張った。唇も、ほほも、握ったままの手も、微動だにしないなか、瞳だけが揺れている。 「ミツキ?」  咲耶花の指先が、ふっくらした手の甲に触れる。  ぱっと、膝に掛かっていた重みがなくなる。魅月が身を離したのだ。小さく薄い体がひるがえったと思ったら、ぼすんっと胸元に何かぶつけられた。 「ねーちゃんのバカ!」  転げるように膝の上に落ちたのは、クッションだった。ソファの反対側に寄せらていたもので、ネコのシルエットが刺繍されている。魅月はもう一つ手に取ると、それを振りかぶった。 「こら! やめなさいミツキ!」  開いていたドアから叔母が駆け込んでくる。魅月の腕をつかもうとするが、彼はひらりとかわした。クッションが床に落ちる。 「バーカバーカ! かーちゃんもバーカ!」  捨て台詞を残して、魅月は廊下へ飛び出した。足音が遠ざかり、ドカドカと階段を上がる音に変わる。叔母は追いかけようと一度ドアから身を乗り出したが、放心している咲耶花を振り返って留まった。駆け寄って、ソファの傍らに膝をつく。 「サヤカちゃん? 大丈夫?」 「ああ、うん。」 「ごめんね。後でよく叱っておくから。」 「ううん。私が悪いの。なんか、怒らせちゃったみたいで。」 「怒ったからって、お姉ちゃんに物をぶつけて良い理由にはならないわ。本当にごめんね。」  申し訳なさそうに眉を八の字にする叔母に、こちらも申し訳ない気持ちになる。咲耶花が頭を下げると、叔母はバスタオルを渡してくれた。 「よくあったまってくるのよ。」  風呂から上がった後、部屋の前まで行って中に呼びかけてみたが、イトコは返事をしてくれなかった。  ***
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