73人が本棚に入れています
本棚に追加
「あ、君。悪いがコーヒーを頂けるかな。それとゴディバのプレステージビスキュイがいいな」
言葉自体は悪い印象ではなかったが、その身振り手振りが横柄に感じる。そんなことは今更どうでもいいとして、雫はお茶の準備などできはしない。プレステージ何とかってのはなんだ?
一瞬たじろいだ雫の前にさっと身を乗り出した執事が綺麗な角度で頭を下げる。
「配慮が至らずに申し訳ございません。只今お持ちいたします。偉明様」
執事は機敏な動きで階段を降りて行った。偉明様と呼ばれた白スーツは、そんな執事も雫も気にする様子は見せずにスタスタと居間へ入って行く。居間と言ってもホテルのラウンジの様相だ。
そもそも清掃以外のことはしなくてよいと指示されているので雫は何も悪くないのだが、何となく突発イベントに失敗したような気分でため息をつき再び窓に向き合う。
「ビックリさせて申し訳なかったね」
思いがけない声に驚いて雫は声の方に向く。完全に死角になっていて気付かなかったがそこには秋昴が穏やかな笑顔を湛えて佇んでいた。
「偉明は使用人ならみんな一緒だと思っているから。うちは完全に役割分担制だから気にしなくていいよ。もし一人の時、今みたいにお願いされたらとりあえず佐久間に、あ、メジチに連絡して。スマホは支給されたよね?」
アスカが言っていた秋昴のワイルドなイメージはルックスだけで、表情や口調は何とも温厚な印象を受ける。しかし精悍な眼差しはやはりこの財閥を担う風格を持っている。
それにしてもメジチという呼び名はどこまで浸透しているのか。もしかしたら言い出したのはこのご子息たちなのかもしれない。
「はい。ありがとうございます」
雫は自分の頬がほんの少しだけ緩んでいるのを感じながら頭を下げた。
「あ、挨拶が遅れたね。私は四条辻秋昴。さっきのは婚約者の大津賀偉明だ。私事でこんな大袈裟なパーティーとは些かお恥ずかしいんだが。しばらくの間よろしく頼むよ。雫さん」
凄い。やはり名前と顔を憶えてくれている。
雫は感心した。夏惟も秋昴も、本物の上流階級者とはこのように実に人格者なのかと。
アルファであることに胡坐をかいて弱い者いじめしかできないような似非上流層とは全く違う。まるで異国にでも来たようだ。
これでは使用人たちが自ら出向きたくなる気持ちも分からないでもない。アスカが神と謳うのも最もだ。
「はい。こちらこそお世話になります」
それからは順調に清掃作業が進んだ。途中、おそらく秋昴の担当者がコーヒーと片側にチョコが付いたクッキーを銀のトレーに乗せて通り過ぎて行った。
プレステージ何とかってチョコクッキーのことなのか、とぼんやり思い雫はなんだか可笑しくなったりした。
最初のコメントを投稿しよう!