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飛び降りた彼女
過去というのは、実在するようでほぼ幻想に近いものなんだと、最近思うようになった。
写真やビデオ、建造物のような物的証拠がなければ、過去は……人々の記憶の中にしかないからだ。もし仮に、その記憶を操作することができれば、「あったこと」にも「なかったこと」にもできる。それが、過去。
例えば、12年前の今日、小学校の図書館のカウンターで、司書の先生と好きな物語について語り合っていたという過去が存在したとしよう。
僕がそのことを覚えていれば、「確かにあった」と言い張れるけど、僕がぜんぜん覚えてなくて、司書の先生から「昔そんなことがあったよね」と言われても、首をかしげるしかない。僕にとって、その過去はないも同然なのだ。
先生の勘違いなんじゃないの? ……と僕が問いかけたところで物的証拠はないのだから、先生にもなすすべがない。時が経てば経つほど記憶も曖昧になってゆき、先生すら完全に忘れてしまったら、その過去はもはや「初めから無かった」のと同義だ。
もしかしたら過去なんて一切なくて、あるのは「この瞬間」だけなのかもしれない。この記憶を埋め込まれた状態で、たった今、僕はこの世に生を受けたんじゃないだろうか。……だとすれば、僕にとって意味があるのは「この瞬間」だけだ。
「ここは、どこだ?」
大学の中庭にあるベンチに座っていた僕は、空を見上げながら、呟いた。木陰から覗く8月下旬のその青空には、小さな雲が点々と泳いでいた。
なんとなく違う気がする世界。全く身に覚えのない思い出話。その全てが、僕を混乱させてゆく。果たして僕に、子供だった頃なんてあったのだろうか。子供の頃の僕は、今の僕と同一人物なのだろうか。それを肯定するのに、十分な証拠はあるのか。
……ダメだ、頭がおかしくなる。もっと意味のあること……、例えば、今週末が締め切りになっている、経済学のレポートの内容でも考えるか。
僕は大学を出た。考え事をするならアパートに戻った方が落ち着くし、いいアイディアも浮かぶ。
今僕が住んでいるこの街は、閑散としていてあまりひと気がない。かつては賑わっていたであろう商店街は、元号が平成に変わった7年前あたりから徐々に廃れ始めたらしく、今は昼間でもシャッターが目立つようになった。
……そのうち、全ての店が閉店してしまうんじゃないか。そんな気さえする。僕には関係の無いことだけど。別に、この町に思い出もなければ思い入れもない。無くなるものは無くなるし、残るものは残る。あるのは、その程度の感情だけだ。
この町に限らず、今の人生そのものが、僕にとって思い出も思い入れもないのだけど。
半年ほど前、大学二年生も終わる頃、僕は事故に巻き込まれたらしい。でも僕は、その事故のことはおろか、それ以前のことを全く覚えていない。体の各所に残る傷跡と復元の努力が目立つ顔は、事故が「確かにあった」ことを主張しているけれど、僕にとっては他人事のような話だ。
この大学だってそう。「君はこの大学の学生だった」と言われて仕方なく通っているけど、全然そんな気がしない。事故以前に付き合っていたらしい彼女にも「もう昔の和馬くんじゃないんだね」と言われて振られたし、つるんでいたらしい友達も離れていった。
……しょうがないじゃないか、覚えてないんだから。悪いのは僕じゃないだろ。そもそも、「和馬」という名前すらしっくりきてないんだぞ、こっちは。
まるで、赤の他人の人生を生きているようで、かなり気持ち悪い。しかも、家族総出で巻き込まれたあの事故で、生き残ったのは僕だけだったらしい。だから、痛みを分かち合える人もいなければ、僕の過去を教えてくれる人もいない。
……記憶喪失が、僕から悲しみという感情まで抜き取ってくれたのはありがたかった。だから、その代わりに消えてしまった家族と過ごした毎日は、むしろ思い出さない方がいいのだろう。
結局僕は、僕という人間が分からないまま、この人生を生きている。
ふと顔を上げ、寂れた町の一角をぼんやりと眺めた。事故以前の僕は、毎日この風景を眺めていたのだろうか。
『何気ない風景で、記憶を取り戻すこともあります』
医者の言葉をなんとなく思い出しながら、僕はその辺り一帯を当てもなく見回してみた。シャッターの閉まった店、白じゃけたポスター、今にも崩れそうなヒビだらけのビル……。可愛そうなくらい活気がない。
……と、その時。
僕は、古いビルの屋上に人影を見た。……誰かいるらしい。とても機能しているように見えない建物の屋上にある人影は、あまりにも不自然すぎた。しかも、恐らくあれは女性だ。白いブラウスと、紺のスカートを履いている。ますますあのビルとマッチしない。
しばらく見ていると、その人影は屋上を囲むフェンスを乗り越え始めた。よくよく見れば、靴を履いていない。……ちょっと待て、やばいんじゃないかアレ。
……彼女、あそこから飛び降りるつもりだろ、絶対に。もしそうなら……自殺!?
僕は蒼白になり、急いでビルの方へ駆け出した。周りを見渡しても、頼れそうな人は誰一人としていない。クソ、これだから過疎地域は……!!
走りながら、再びビルの屋上を見上げる。目測だけど、高さは10 m以上あると思う。下はアスファルトだ。飛び降りたら、まず助からない。なんとか説得を……
そう思った次の瞬間、ゆらっと彼女の体が傾いた。大きく開けた僕の口からは、なんの言葉も出なかった。
ふわりと宙に浮く、彼女の軽そうな身体。風圧で広がる黒のロングヘアー。ビデオのコマ送りのように、僕の目にはゆっくりとそれが映った。
彼女が落下するであろう場所まで、あと数メートル。ここまできたら、もう彼女を受け止めるより他にない。失敗すれば、僕の目の前で彼女がトマトになるか、僕と衝突して一緒にあの世に行くか、そのどちらかになる。
僕は、ほとんど何も考えずに、彼女の方へ両手を伸ばした。そして……
……ドシン、という衝撃とともに、一瞬宙を浮いた僕は。
彼女を抱きかかえたまま、アスファルトの地面を3メートルほど滑走した。
『ザザザザザーッ!!』
……辺りは再び、静けさを取り戻した。
なんとか……なったらしい。彼女は、お姫様抱っこのような体勢で僕の両腕の中に収まっている。その僕はというと、腹ばいになって地面に横たわっているわけだけど。
「全く、いったい何が悲しくてこんな酷いこと……!!」
僕は、少し感情のこもった声で彼女にそう問いかけてしまった。どんな言葉をかけるのが正解なのか、ろくに考えもせず。余計なことを言って、彼女の心をさらに傷つけてしまったら最悪なのに、僕も僕で高ぶっていて、冷静になれなかった。
きっと、彼女に泣きながら色々言われるんだろうな。「どうして私のことなんか助けたの!?」とかさ。そう言われたら、どう返事すればいいんだろう。
そう覚悟していた僕だけど、彼女の様子は違った。
きょとんとした面持ちで、僕の顔をじっと見つめている。……事故で一度グズグズになって作り直した、形の悪い僕の顔を。特に表情を変えることもなく、彼女はしばらく黙って見ていた。
必然的に、僕も彼女の顔をじっと見つめることになる。とても清楚な印象を受ける、比較的整った面立ちをした彼女。歳は、僕と同じか少し若いくらいだと思う。一体、どんな気持ちで僕を見ているのだろうか。
……その一方で僕は、激しい既視感に襲われていた。理由なんて自分にも分からない。でも、彼女の顔を見たその瞬間、酷く懐かしい気持ちに心全体が包まれたんだ。……懐かしすぎて、悲しくなるくらいに。
「……誰?」
しばらく僕を見つめていた彼女が、ようやく、その小さな口を開いた。
彼女は、異様なまでに落ち着いていた。怒鳴りもしないし泣き喚きもしない。澄んだ瞳で僕を捉えたまま、でもその表情は能面のように固まっていた。
「僕? 僕は新井和馬。……変な顔でしょ、ごめんね。実は……」
「……そうじゃなくて。私。私は、誰ですか?」
「……えっ?」
彼女の言葉の意味を理解しようとして、思考がそこで止まってしまう。……そんなこと、僕が知るはずもない。というか、その質問自体がオカシイ。自分が誰かなんて、普通人に聞かないだろう。
「誰……って、僕にはわからないよ」
「……私、ここで何をしてるの? あなたは……新井さん……でしたっけ? どうして地面に寝そべっているんですか?」
……本気で言ってるのか?
「君、自分が今何をしたのか、覚えてないの?」
「……私、何かしたんですか? あなたに?」
……これは、相当に面倒なことになった。
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