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失われた過去
飛び降りた衝撃なのか、はたまた精神的なショックなのかはわからないけど、どうやら彼女は以前の記憶を全て失ってしまったらしい。
どうするんだよ、これ。どうしたらいいんだ、僕は。
とりあえず、そっと彼女を地面に下ろし、僕も立ち上がった。着ていたチェックのシャツはアスファルトですり切れ、ボタンもいくつか飛んでいる。……これはダメだな、捨てるしかないか。結構気に入っていたのだけど。
いやいや、そんなことに気を向けている場合じゃない。これから彼女をどうするか、考えないと。
「……ええと、つまりその……、記憶喪失……ってヤツですか?」
「……そのようです」
「本当に何も分からないんですか? 名前も? 今住んでる場所も?」
「はい……。日本……ってこと以外、ここがどこなのかも分かりません」
「それは困りましたね……」
記憶がなくなった後のなんとも言えない気持ち悪さは、痛いほどよくわかる。むしろ、現在進行形で僕もその真っ最中なわけだし。僕のときは家族が一緒だったから、身元はすぐにわかったみたいだけど。
さて、どうしたものか。家族に連絡しようにも連絡先が分からないし、家に連れて行こうにも場所がわからない。もちろん、身分証になるようなものを彼女がもっている様子もない。手っ取り早いのは警察に行くことだろうけど、家族が捜索願を出していなければ手の打ちようがないわけで。一人暮らしなんかしていれば、捜索願だってしばらくでないだろう。
……そもそも、彼女は今し方、自殺しようとしたんだ。原因を知る由はないけど、積極的にもとの生活へ戻すことが、彼女にとっての幸せだとは思えない。身元がわかり、彼女に記憶が戻ったら、……彼女はまた、死のうとするかもしれないのだ。
だとすれば……
「……記憶が戻るまで、僕のアパートで一緒に住みますか?」
彼女の記憶を取り戻す努力ではなく、生活を手助けする努力をしたほうが、彼女の将来のためになるのではないか。
幸いにも、僕の生活にはそこそこの余裕があった。両親の遺産と生命保険を受け継ぎ、思い入れのない土地を売り払ってそれなりの金額を手に入れていたし、今年で大学3年生になる僕は、就職だって時間の問題だった。彼女一人を養うくらい、どうってこと無い。
「そんな、急にお願いできません、そんなこと……」
「僕のことは気にしなくていいですよ。あなたさえ良ければ、遠慮しないで来てください」
「……だけど」
ためらう彼女。そりゃそうだよな、見ず知らずの人の家に転がり込むなんて、まともな神経があったらとても首を縦に振れる話じゃない。僕だってそうだ。
「じゃあ、しょうがないから警察行こうか。このままじゃどうしようもないし……」
僕がそう提案し直すと、彼女は寂しそうに目を細めた。
「……私。どうしたらいいのかわかりません……。なんとなく、……このまま何も思い出したくない気がするんです。このまま……何も知らずに……」
暗い表情で俯く彼女を見ながら、僕は考えた。……たぶん彼女は、「一緒に暮らすのも悪くない」と思っている。でなきゃ、こんなこと言わずにすぐ警察へ駆け込むはずだ。
……もう一押しすれば、ウチに来るという選択をするんじゃないか。僕はどうしても、彼女のことを放っておけなかった。彼女を自分の近くにおいて、見守っていたかった。
明らかに、「自殺をしようとした女性を偶然助けてしまった」こと以外の動機が、僕を突き動かしている。それがなんなのかはっきりは分からなかったけど、もしかしたら僕……、記憶を失う前に、どこかでこの人と会っていたんじゃないだろうか。
……でも。だから何だって話だよな。お互いに記憶がないんだから、そんな過去ほど空虚なものは無い。絡みがあったにしても、同じ大学で僕が片思いしていたとか、たぶんその程度のことなんだろうし。現実的に考えて、彼女を自宅へ連れ込む理由にはならないだろう。
ただ、もし彼女に片思いしていたとしたら……。僕にとってこれは、恋を叶える大チャンスということになる。それって結局、彼女のためと言うよりは自分のためじゃないのか? ……クズだよな、ホントに。
「……繰り返しますけど、あなたさえ良ければ……僕と一緒に暮らしませんか?」
初対面の女性に対するセリフとして、限りなく不適切……という認識はある。ナンパ目的のプレイボーイですら、「俺と一緒に暮らそうぜ!」なんてまず言わないだろう。
「僕と暮らしていれば、少なくともその間は、過去のことを思い出さなくてすみますよ」
僕は話を続けた。新製品を売り込む、セールスマンのように。あるいは、宗教団体やビジネスへの勧誘なんかも、これに近いのかもしれない。……あまりいい印象はないけれど。
「……本当に、いいんですか?」
彼女は、俯いていた顔を少しだけあげてから、念を入れるように僕に聞いてきた。
「はい。僕としてはむしろ……あなたに来て欲しい。心配……ですから」
「だけど私、お金が……」
「お金のことは、気にしなくていいですよ。僕も学生ですけど、諸々の事情で貯金はたくさんあるんです」
僕がそう返すと、彼女は再び俯き気味になってから、口を開いた。
「……あなたは、悪い人には見えません」
そして、おもむろに顔を上げつつ、僕に目を合せる。さっきから俯いたり顔をあげたり……。目のやり場に困っているのだろうか。
「……だけどどうして、赤の他人である私に、そこまでしてくれるのかがわからないんです」
……それは、その通りだと思った。記憶が無いとは言え、自殺しようとした女性を自宅に連れ込もうとしている時点で正気の沙汰じゃないし、今後……何らかのトラブルに巻き込まれる可能性だって高い。
それでも……。それを承知した上で、僕は続けた。
「あなたにとっては赤の他人かもしれませんが、僕にとっては……あなたは他人じゃないんです」
彼女の記憶がないのをいいことに、僕は適当なことを口走る。……彼女から見ても僕から見ても、お互い他人同士なのにも拘わらず。
「あの、……それは……どういう……」
「遠い親戚……ってところです。これ以上は、聞かない方がいいですよ。思い出したくないことを、思い出してしまうかもしれないので」
うーん……。どうも、嘘をつくのは苦手だ。だけど、遠い親戚くらいの設定にしておかないと、彼女の警戒心も解けないだろうし……。
「そう……だったんですか。私……記憶がなくなる前に……いえ、やっぱりいいです。あの、本当の本当に……居候してしまっていいんですか?」
彼女は何かを聞き返したそうだったけど、深く追求はしてこなかった。
「大丈夫ですよ。なんなら、今から一緒にアパートへ行きましょう。ついてきてください」
「あの、その前に……」
歩き出そうとする僕の腕を、彼女がつかむ。
「……名前、教えてください。……私の名前、本当はご存じなんですよね? さっきは知らないフリをされていたようですけど……」
ギクリとして、嫌な汗が滲んだ。最初、僕は「君が誰かわからない」と言ったのに、その後で「遠い親戚」だなんて、確かにつじつまが合わないじゃないか。さっきから行き当たりばったり過ぎて、ボロが隠し切れていない。
「ええと、君はその……、山田加奈子ちゃん……っていうんだ。今までカナちゃんって呼んでたから、今後もそう呼ぶね」
脳内に浮かんだ適当な名前を、慌てて口にした。もうダメだ、嘘をつくのはこれで最後にしよう。自分の演技力のなさにここまで落胆したのは初めてだ。
「……じゃあ行こう、カナちゃん」
ようやく、僕とカナちゃん(仮)はともに歩き始めた。一応彼女の了解は得ているわけだし、誘拐……じゃないよな。保護だよ、保護。そう自分に言い聞かせる。
……こうして、記憶が曖昧な者同士の、奇妙な同棲生活が幕を開けたのだった。
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