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2. 決意
顔を睨みつける兄を見て、妹が皿を並べる途中で固まった。
「なん……兄さん?」
「斑点だ」
彼がハナの頬を指すと、元より白い妹の顔から更に血の気が引く。
栗色の前髪から覗く、緑色の斑。
理不尽だ。
魔窟病は伝染したりしない。なのに、どうしてハナまで苦しまなければいけないのか――アーゼルの顔が、憤りで歪む。
「お前も仕事は休め。明日の朝までには戻る」
「熱は出てない。病気かどうかはまだ……」
壁のフックからコートを取り、袖を通す兄を、ハナは訝しげに目で追った。
「出掛けるの?」
「薬を取りに行く」
「煎じ薬なら、あと一週間分はあるよ」
「そんなもの、効きやしないだろ。青肝じゃないとダメだ」
妹が目を瞠き、両手で口を覆った。
放り出された皿がテーブルで跳ね、ガラガラと煩い。
「無理に決まってる。何を考えてるのよ!」
「それしか方法が無い。やれることは全部やらないと」
「青肝なんて昔話でしょ? 兄さんまでいなくなったら、私はどうしたらいいの」
「俺が独りになるのはいいのかよ!」
魔窟も最初から封印されていたわけではない。
大昔からの伝承によれば、幾度も探索や化け物退治が行われたらしい。
一度は魔窟の主を倒し、その身から剥いだ硬い心臓を持ち帰ったそうだ。
それが“青肝”で、細かく砕いて服用すると、瘴気を浴びた兵たちも生気を取り戻したとされる。
残念ながらすぐに化け物は復活してしまい、兵団による監視が始まった。
「なぜ穴の入り口を埋めなかったのか分かるか?」
「いいえ……。化け物が怒るから?」
「青肝が必要だからだと思う。今じゃなくても、いずれ要るだろうと国が考えたんだ」
それはアーゼルの予想であって、根拠など無い。
敢えて言えば、侵入しようとする不届き者が絶えないことが、推理を裏付けてくれようか。
冬に捕えられた三人組は、はっきりと青肝が目的だと答えた。難病を治す霊薬を求めて、遥か大陸の反対側から来たのだと。
昔話を信じるのは馬鹿かもしれない。尾鰭が付いた与太話だと、彼もつい最近まで聞き流していた。
しかし、他に何を頼りにすればいいのか。
ハナに何度も翻意を促されながらも、用意を整えたアーゼルは革の背嚢を肩から提げて家を後にした。
◇
風が冷たい初春とは言え、山道を急ぎ歩くと汗が噴き出る。
村の端に在るアーゼルの家は魔窟にいくらか近く、これでも楽に通えた方だろう。
当初はそれが利点だと、彼も喜んでいた。ところが、病気を招く原因にもなり得ると気づいた今、彼も自分の蒙昧さを呪う。
警備の巡回路や周期は、おおよそ彼の頭に入っている。
詰め所の手前まで来たアーゼルは、皆に見つからないよう心掛けつつ、奥の用具倉庫へと移動した。
彼が欲しいのは武器だが、本格的な保管所は鍵も掛かっているし見張りもいる。
倉庫で使えそうな物は、金属製の小箱に分納された火炎玉だ。
箱を二つ選び、彼が背嚢へ押し込むと、パンパンに革が突っ張った。
忍び足で倉庫を出たアーゼルは、次に油瓶へと向かう。
照明用の油を掬い、空の水筒に詰め、詰め所を離れて木立へと入っていった。
鉄柵から十分に距離を取り、魔窟の入り口を目指して歩き始める。
昔話が正しければ、化け物は火に弱いらしい。投げつけて着火する火炎玉は、一応その言い伝えに従って用意されている装備だ。
彼が家から持ってきた武器は、使い慣れたナイフくらいのもの。松明やスコップは武器と言えないであろう。
甚だ心許なく、無謀と謗られても反論は出来まい。
――だからどうだと?
頭の中で、自分を嘲笑う常識を払いのける。
青肝が手に入るなら、化け物と刺し違えても構うものか、とアーゼルは覚悟を決めていた。
母と妹を見殺しにはしないという決意が、魔窟への恐れを押さえ込む。
見回りが来る度に息を潜めつつ、彼は少しずつ目的地へと接近した。
やがて鉄柵越しに、遠く穴の入り口が見える。
森の中、背の高い茂みで身を隠した彼は、腰を下ろして小箱を取り出した。
鍵部分の留め金を、ナイフの先を挿し込んで潰しにかかる。
焦る理由はない。静かに少しずつ破壊を進め、蓋が開いたところで中身を背嚢へ移す。
前回の侵入者は、鉄柵の下を掘って中へ潜り入ろうとした。
埋め直した跡はまだ柔らかく、彼一人が通るサイズならすぐに掘り返せるはずだ。
警戒の薄い夕暮れ寸前を狙い、ただじっと時を待った。
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