むかし

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むかし

男は妻と二人で自分が設計した家に住むごく普通の建築士であった。しかしそれは、端から見れば。実際の男は異常なほどの亭主関白であった。妻のことで気に食わないことがあると途端に烈火のごとく怒り出すといった横暴さであった。 そんな男の妻は編み物が好きで、腕前もプロ顔負けのものであった。子供が小さいときには毎年冬になる前からせっせとマフラーやニット帽を編むのが彼女の恒例行事であり、生き甲斐でもあった。子供たちも母が楽しみながらこだわって作るマフラーに手作りの温かさを感じながら喜んで使っていた。近所での評判も良く、彼女に依頼が押し寄せ一時は近所のほとんどの子供たちが彼女の作ったマフラーをしていることもあった。殺到する製作依頼にやや困惑しながらも自身の趣味が周囲に認められていること、 編み物ができることにとても喜びを感じていた。 しかし、男だけは違った。口を開けば妻を褒める我が子や隣人達に苛立ちを感じており、リビングで子供たちがする母の話に嫌気がさし席を立ったことや、隣人達の井戸端会議が開催されているのを確認して帰路を変更したのも一度や二度ではない。まあ思い返せば、この頃は子供たちの手前、苛立ち程度で収まっていたのであろう。 やがて子供達が家を出て夫婦二人の生活が始まると妻はさらに編み物に力を入れるようになり、よりクオリティの高い作品をネットショッピングに出品したりして、これもなかなかの評判であった。しかし、これを知った男は、ついに積年の苛立ちに火がつき爆発した。男は妻の愛用の編み物の道具を全て捨て、今後編み物をしたら即離婚だと脅し、妻の生き甲斐を奪った。 それ以降の夫婦関係は今まで以上に悪かった。夫婦間でのたわいのない会話などはもちろんあるはずもなく、男が帰宅したことを伝える扉が開く音に、妻は体を震わせる日々が続いた。 そんな生活が一年続いたある秋の日、出張といって一週間家を空けている男の帰宅する日、妻は久しぶりに男の書斎を掃除しようと部屋に入った。すると、デスクに山積みにされた資料のなかに、いかにも高級そうな紙袋が無造作に置かれていた。彼女は好奇心と夫にバレたら何をされるかわからないという恐怖がない交ぜになった震える手で、その紙袋を引き寄せた。そしてゆっくりとその中身を見た彼女の動きが完全に止まった。しばしの思考停止を経てすべてを悟った彼女はそっと紙袋をもとの場所に戻し掃除もそこそこに部屋を後にした。
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