836人が本棚に入れています
本棚に追加
02. ひまわり
「た」がかすれてきたなあ。
ぼんやりと暖簾の文字を見つめた後、身をくぐらせた。
引き戸の音に反応するように、テーブルを拭いていた鴨沢唯が振り返る。
「あー。店長、髪切った」
挨拶するよりも先に変化に気づかれ、夏生はだいぶさっぱりとしたうなじを触った。
「ごめんね。仕込みから入ってもらって」
「全然。暇だもん」
唯は拭き終わったふきんをいたずらにねじりながら、夏生のまわりを一周した。
——唯は、ひとことで言うならば、瓶に入った飴玉のようだ。
キラキラとした丸い目も、動くたびに追随する甘い香りも、雰囲気そのものまでもが、とりどりの淡い色や砂糖で構成されているかのようだった。
「髪型、かっこよくなった」
「そ、そう?」
「うん。今のほうが好きー」
率直に言われ、夏生は首のあたりが赤くなっていないか気になった。
女性から好きだとかかっこいいなどと言われるのは久々で、大いに照れてしまう。
「なに、鼻の下伸ばしてんのよ」
突如、からかうような声が背中を突き刺してきた。
——案の定、神田若菜だった。
カウンターに座っていたらしいが、唯と被っていて気づかなかった。
「後ろにいたのに、よく俺の鼻の下が見えたな」
「そんなの見なくてもわかるわよ。屁理屈言ってんじゃないの」
「屁理屈じゃなくて理屈だよ。大体、まだ開店前なのに、なに出来上がってんだよ」
カウンターには、枝豆のさやと焼き鳥の串が2本、それに、ほとんど空になった中ジョッキが並んでいる。
紅潮した頰を見るかぎり、おそらくこれが1杯目ではないのだろう。
「すいません。若菜さんだし、いいかなって」
厨房から角谷淳介が顔を出した。
彼につられるようにして、鍋から昇る湯気がふわりと揺れる。
「淳介、今日、ひとりで色々やってもらって……悪かったな」
夏生が言うと、切れ長の一重まぶたを細めながら、淳介が控えめに笑った。
厨房をちらりと見ると、頼んだ作業はすっかり片付いていて、お通しの準備や店内の清掃も充分だった。
「もうひとりで店できそうだな」
「いや、まだまだです」
――昔から飲食店をやるのが夢だったというこの大柄な男と知り合ったのは、夏生がまだ店長になったばかりのころだった。
サラリーマンを辞め、飲食店のノウハウを学ぶために修行させてほしいと、秋穂の知り合いの伝手で入ってきたのだ。
週に5日ほど来てもらうようになってから早一年、飲み込みも早く意欲もあり、アルバイトで雇うのが申し訳ないくらいの働きぶりだ。
事実、淳介が来てから秋穂が店に来る回数は徐々に減り、ついには
「落ち着いてきたしさ、もう、あんたのやりやすいようにやんなさいよ」
といったのを最後に、ほとんど来なくなった。
それから、大学生の唯と、23歳のフリーターである滝田南がホールスタッフとして新たに加わり、たか瀬の新体制ができた。
淳介は、実質、店長代理を任されるくらいにまで成長し、夏生がこうして頼りにする機会も少なくなかった。
ただ、店を持つという目標がある彼に、いつまでも甘えていられないのだけれど。
最初のコメントを投稿しよう!