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03. 花火大会の夜
「生こっち!」
呼ばれるままに、バーカウンターと客席、そして店先とを行き来していると、熱気と冷気に交互に押されているようだった。
開店から1時間半、ようやくひとつ息をつく暇が与えられ、夏生は冷たいおしぼりで口元を拭った。
まだ花火も上がっていないのに、開店してまもなく店内はカウンターをのぞいて満席、店の外からは賑やかな気配と呼び込みをする唯の声が混ざり合って響いてくる。
背中や額を汗が伝うが、常にビールジョッキを持っている指先だけは清水に浸したような冷たさで、夏生はそのアンバランスな温度感を楽しんでいた。
忙しいのは好きだ。
特にこんな日は、祭り事に華を添えているようで、気分もよかった。
——それは、夏生だけではい。
「ちょっとぉ、頼はどうしたのよ〜」
厨房から、秋穂の威勢のいい声が飛んできた。
髪を一つに縛り、エプロン姿の母は、いつもよりも生き生きとして見える。
「まだ来てない。一応、来るとは言ってたけど」
「相変わらずねぇ。頼りにならない頼ちゃんは」
秋穂の悪態に、はつ美がけらけらと笑った。
細い眉にトイプードルのような茶色い髪、笑うと歯茎が豪快に出るこの年配の女性は、秋穂の長年の親友であり、この物件の大家でもある。
——夏生が来る前、たか瀬は、秋穂とはつ美によって切り盛りされていた。
夏生に世代交代した今では、花火大会の日と花見シーズンの2回、たか瀬を手伝いに来るくらいだ。
「ほら、茂ちゃん。グラス空いてるわよ」
ずんぐりと太った男とはつ美は、昔からの知り合いらしい。
はつ美は男性客から勝手にジョッキを奪うと、頼まれてもいないのにおかわりを置いた。
「あー、これ以上は医者に止められてんだよぉ。でもまあ、はっちゃんの酒だからのまねぇわけにはいかねーなあ!」
「大丈夫よ、 1杯や2杯くらい。茂ちゃんのために、さっきから水で薄めて出してやってるんだから!」
はつ美の冗談に、男はかた焼きせんべいのような顔を赤らめ、ガッハッハと笑った。
「いつものたか瀬と、雰囲気がだいぶ違いますね……」
焼き場にいる淳介がぽつりと呟いた。
秋穂とはつ美のペアが復活する夜は、昔の常連客が集まり、店内は同窓会のようになる。
黄色い声ならぬ、黄土色のかしましい声に押されて、現スタッフ達は、身をひと回り小さくするのだった。
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