03. 花火大会の夜

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*** 「おー、すごい。大盛況だなあ」 椎名(しいな)祥吾(しょうご)が現れたのは——花火が上がる15分前。 ようやく外の対応が落ち着き、夏生が2本目のおしぼりで顔を拭いているときだった。 不動産会社で営業をしている彼は、休日である今日も仕事だったのだろう。 ジャケットこそ羽織っていないものの、スーツ姿だ。 ミディアムヘアにはゆるくパーマをかけている。 空調の真下を通ったとき、そのひと束がぽわんと波打った。 「いらっしゃい。ここ空いてるよ」 運よく空いていたカウンターの端に案内すると、焼き場がひと段落した淳介が、バーカウンターに回った。 「ここ、俺のリザーブ?」 一つだけ残ったカウンター席を指差しながら、祥吾が笑った。 「……そういうことにしとく」 席に着いたタイミングで夏生がビールとお通しのたこわさびを置いてやると、祥吾のくたびれた顔がほころんだ。 夏生は、客が一杯目を飲む瞬間、愉楽と幸福を凝縮したような表情を見るのが好きだった。 そして続く、唸りにも似た、豪快なため息。 「あー、このために生きてるわー」 祥吾はジョッキを置くと、口角についていた泡を手の甲で拭った。 「大変だな、今日も仕事だと」 労いの言葉をかけると、祥吾は夏生の肘を小突いた。 「お前もだろ」 ——そういえばそうだった。 祥吾は今日のおすすめメニューを一瞥し、キッチンにいる秋穂に視線を向けた。 「お母さん、お久しぶりです」 突然のことに、秋穂はピンときていないようだ。 椎名です。夏生の高校のときの友達の。 しいな、しょうご。 祥吾に言われた言葉をゆっくり飲み下すように聞き、それから感嘆の声を上げる。 「祥吾くん!? あらやだ、いい男になっちゃって全然気づかなかった」 いまこっちで仕事してるの? そうなの。 結婚は? でも彼女はいるんでしょ? えー、もったいない! ご家族は変わりなく? そう……。 秋穂は数年分の穴を埋めるようにざっくりとした近況を聞き、それに対して相槌を打ちながらしみじみとしている。 傍観していると長くなりそうなので、タイミングを見て、横から口を挟んだ。 「祥吾、なにか食事も頼む?」 「あー、じゃあだし巻きと、漬け物の盛り合わせ」 「はいはい!」 秋穂は張り切って厨房の奥へと消えていった。 だし巻きは、かつての秋穂の看板メニューであり、本日限りの復活だからだ。
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