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「おー、すごい。大盛況だなあ」
椎名祥吾が現れたのは——花火が上がる15分前。
ようやく外の対応が落ち着き、夏生が2本目のおしぼりで顔を拭いているときだった。
不動産会社で営業をしている彼は、休日である今日も仕事だったのだろう。
ジャケットこそ羽織っていないものの、スーツ姿だ。
ミディアムヘアにはゆるくパーマをかけている。
空調の真下を通ったとき、そのひと束がぽわんと波打った。
「いらっしゃい。ここ空いてるよ」
運よく空いていたカウンターの端に案内すると、焼き場がひと段落した淳介が、バーカウンターに回った。
「ここ、俺のリザーブ?」
一つだけ残ったカウンター席を指差しながら、祥吾が笑った。
「……そういうことにしとく」
席に着いたタイミングで夏生がビールとお通しのたこわさびを置いてやると、祥吾のくたびれた顔がほころんだ。
夏生は、客が一杯目を飲む瞬間、愉楽と幸福を凝縮したような表情を見るのが好きだった。
そして続く、唸りにも似た、豪快なため息。
「あー、このために生きてるわー」
祥吾はジョッキを置くと、口角についていた泡を手の甲で拭った。
「大変だな、今日も仕事だと」
労いの言葉をかけると、祥吾は夏生の肘を小突いた。
「お前もだろ」
——そういえばそうだった。
祥吾は今日のおすすめメニューを一瞥し、キッチンにいる秋穂に視線を向けた。
「お母さん、お久しぶりです」
突然のことに、秋穂はピンときていないようだ。
椎名です。夏生の高校のときの友達の。
しいな、しょうご。
祥吾に言われた言葉をゆっくり飲み下すように聞き、それから感嘆の声を上げる。
「祥吾くん!? あらやだ、いい男になっちゃって全然気づかなかった」
いまこっちで仕事してるの? そうなの。
結婚は? でも彼女はいるんでしょ? えー、もったいない!
ご家族は変わりなく? そう……。
秋穂は数年分の穴を埋めるようにざっくりとした近況を聞き、それに対して相槌を打ちながらしみじみとしている。
傍観していると長くなりそうなので、タイミングを見て、横から口を挟んだ。
「祥吾、なにか食事も頼む?」
「あー、じゃあだし巻きと、漬け物の盛り合わせ」
「はいはい!」
秋穂は張り切って厨房の奥へと消えていった。
だし巻きは、かつての秋穂の看板メニューであり、本日限りの復活だからだ。
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