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——頼に藍を紹介したのは、ほんの1週間前のこと。
藍とふたりで食事をしていたら、頼がいつもの調子で突然連絡を寄越してきて、ふらりと合流したのだった。
頼はたしかにその場で、自分が美容師をしていること、美容院の勤務地、そして「よかったら切りに来てね」という社交辞令をセットにして話していた。
それに対し「絶対に行きますー」という、藍の社交辞令返しも耳で拾っていた。
……はずだけど。
「藍。どういうことなのか、説明してほしいんだけど……」
長い沈黙を挟んでから、喉につっかえていた振動のようなものが、ようやく言葉となって出た。
言った瞬間、背中に暑さ由来ではない、嫌な汗が伝った。
「ごめん、帰るね」
そこから、さらに先ほどの倍以上の沈黙を挟んだ後。
藍は目を泳がせ疲れたのか、それだけ言うと逃げるように帰ってしまった。
——後に残されたのは、頼と自分、そしてうだるような暑さと、やけに甘ったるい香水の残り香だけだった。
「……どういうことだ?」
「そういうこと」
問いかけに、頼がにんまりと笑う。
その笑みを見て、夏生は心底うんざりした。
先ほどの「にこり」は好戦的な時に見せるものだが、この「にんまり」は、愉快でたまらない時に見せるものだからだ。
「なっちゃん。ああいう巨乳だけが取り柄の、なーんか野暮ったいちょいブスがいっちばんタチ悪いって、俺、前に言わなかったっけ?」
「言ってない。大体、人の彼女をブスとか言うなよ」
「いいじゃん。もうどうせ彼女じゃなくなるんでしょ」
————図星。
夏生がため息をつくと、頼はますます嬉しそうな声を出した。
「なっちゃん、相変わらず人を見る目がないね」
“頼りにならない頼ちゃん”
そのフレーズに対抗するようにして、頼は夏生によくこう言っていた。
“人を見る目がないなっちゃん”
そして、それを言う時、この男は水を得た魚のようにいきいきとするのだった。
現に今も、まるで太陽光をぐんぐん取り込んでいるかのごとく、一段と明るく見えた。
「兄が道を誤らないように見守るのが、弟の使命ですから」
「余計なお世話だよ。それに……」
「もう弟じゃないだろって?」
頼の率直な返しに、たじろいでしまう。
喉が急速に乾いてきて、喉をごくりと鳴らしてみるものの、粘膜が不快に張り付くだけだった。
「ほら、行くよ」
「え?」
不意に汗ばんだ襟足を指でつままれ、そのこそばゆさに身を縮めた。
「髪、伸びてんじゃん。切ってあげる」
元弟は、先陣を切って歩き出した。
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