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「そういえば、たか瀬はどうなの? 最近、行けてないけど」
「まあまあ忙しいよ。人を増やそうか迷ってる」
「そうなんだ。秋穂ママから聞いたよ。最近、なっちゃんにすっかり店を任せてるって」
——「たか瀬」は、もともと秋穂が切り盛りしていた居酒屋だ。
自由奔放な母の結婚生活は、結局3年しかもたなかった。
離婚後、秋穂は東京で念願だった店を開き、友人に手伝ってもらいながら細々と切り盛りしてきた。
夏生が新卒で入社した会社を辞め、たか瀬を手伝い始めたのが——今から3年前。
“あたしもさぁ、そろそろゆっくりしたいのよ”
母はそう言って、半ば強引に店の暖簾を夏生に押し付けると、店の常連客だった会社経営者とさっさと再婚してしまった。
「今は趣味程度にボランティアしたり、旅行したり、気ままにやってるみたいだよ。お母さんは」
「そっか。やっと、ゆっくりできてるんだ」
前髪は眉にかかるくらいでいいんだよね?
頼が前に回り込んできた。
はらはらと落ちる前髪の隙間から、接近した頼の顎や喉が見えた。
成人して久しいのに、顎は少年のときのまま、滑らかだ。
首も白い。
喉仏のあたりに、小さなほくろがあることを初めて知った。
「人、足りないならさー」
「え?」
「俺もたか瀬を手伝うって言ってんのに」
ふいに頼と目が合って、ぎくりとした。
まじまじと見つめていたことに、気づかれただろうか。
「お前は仕事があるだろ。ここで」
「フリーだから大丈夫だよ。合間に手伝うくらい」
——頼は青山の美容院に4年勤めた後、フリーランスになった。
この美容院はフリーランスの美容師同士が間借りしているスペースなのだという。
顧客との連絡も直接取っているし、薬剤の調達なんかも個人で行なっているらしい。
施術も、アシスタントがいる通常の店とは異なり、シャンプーからカットまで、ひとりの美容師が行なっていた。
「嫌だよ。お前、気まぐれだからあてにならないもん」
ひっどいなぁ。
頼が笑って、そのあまい息が鼻の頭にかかった。
「はい、じゃあシャンプー台へどーぞ」
髪をささっと払うと、くるりと椅子を回した。
この後、店がある夏生のために、シャンプーはいつも最後にしてくれる。
厨房に入るときに毛が落ちないように、という配慮だろう。
顔にタオルがかけられると、夏生は表情を緩ませて、その心地よさに身を委ねた。
頼にシャンプーされるのは好きだ。
「気持ちいい?」
そう聞かれたとき——もしかして心の内を見透かされてしまったのかと、夏生は反射的に肩に力を入れてしまった。
それには答えず、喉を鳴らしてごまかした。
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