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「本当にもう帰っていいのかよ?」
頼は夏生のスタイリングが済むと、一緒に店を出た。
まだ昼の2時だというのに、早々に店じまいしていいのだろうか。
「いーの。今日は予約入ってないし、仕入れに行くから」
「仕入れ?」
「そ。明後日、縮毛矯正のお客さん入ってて、その人に使う薬剤。かなり癖が強いからさー、その人用に強い薬を調達してんの」
湿気をはらんだ熱風が、頰や首すじにまとわりつく。
すうっと足に伝った汗がデニムの中で熱を帯びて、夏生はため息をついた。
「頼、全然汗かかないのな」
「えー? かいてるよー」
「どこがだよ。俺の見てみ、この汗」
額の汗を手のひらで拭ってから近づけると、頼は眉をしかめて後ずさりした。
「なっちゃんはかきすぎ」
なすりつけようとふざけて近寄ると、身をよじって避けた。
そうかと思えば突然振り返り、夏生の汗まみれの額に張り付いた前髪をつまんで、横へと流す。
「かっこよくスタイリングしたんだから、今日くらいはキープしてよ」
ふいに体が近づいて、夏生は思わず息を止めた。
その瞬間——信号が青に変わった。
「じゃあ俺、こっちだから」
「ああ、ありがとな」
「そのうち、たか瀬にも行くね」
頼の“そのうち”はあてにならない。
話半分に聞き流し、夏生は顔も見ずに片手を上げた。
お互いに、背を向けて歩き出す。
夏生は少し歩いたところで、今日の代金をまだ払っていないことに気づいた。
「頼!」
頼は横断歩道の中間地点まで歩を進めていた。
こちらの声は聞こえていないようだ。
——耳に白いなにかが引っかかっている。
イヤフォンだった。
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