20. 白昼の逃走劇

5/5
290人が本棚に入れています
本棚に追加
/158ページ
「息子のためにも、死ぬな」 頼の手が止まる。 そして、諦観しきったような祥吾の目に——光がふっと灯った気がした。 「……息子って?」 やはり、そうだった。 祥吾も頼も、その事実を知らないのだ。 3人の間に静寂が訪れ——しばらく、コンクリートを打ち付ける強い風だけが唸っていた。 本当は、その事実を告げるつもりはなかった。 若菜のためにも、心の奥底にひっそりとしまっておくはずだった。 しかし、もう、はぐらかす事などできない。 「蒼斗。今年2歳になる——若菜と……お前の子だよ」 夏生の言葉を受け取った祥吾は、ぼんやりとしている。 そして、ゆっくりと首を振った。 「嘘つくな」 「嘘じゃない」 祥吾は大きく息を吐いて、それから記憶を張り巡らすように、再び空中を仰いだ。 そしてやはり——またすべてを諦めたような顔になる。 「頼、早くしろ」 ふたたび頼を煽る。 「頼、ほら」 怒鳴るようにして催促され、頼は慌てたように指先に力を込めた。 「だめだ!」 夏生は頼を背後から抱き抱えた。 必死すぎて、背後にフェンスがないことを忘れていた。 しばらく揉み合う。 頼はもう、パニック状態なのだろう。 腕を振って、夏生を振り払った。 その拍子に夏生はよろめき、後ろ手をつこうとしたが——つく場所がなかった。 あ、と声を上げた時にはバランスを崩していた。 右手を伸ばしてなんとかコンクリートの端を掴んだが、左半身がすでに空中に出ていたから、そこにとどまることが出来なかった。 「なっちゃん!」 頼が咄嗟に夏生の服の一部を掴んだが、やはりそれも気休めにしかならなかった。 薄手のTシャツには思い切りテンションがかかっていて、今にも破れそうだった。 頼はそれを辿ってなんとか夏生の手を掴むと、勢いよく引っ張ろうとした。 しかし、手がかりがないからだろう。 引き上げるどころか、頼の体も徐々に前のめりになってくる。 「頼、離せ。お前まで落ちる」 「やだ!」 空中に投げ出された夏生は、やけに冷静だった。 消えるべきなのは、この2人ではない。 自分さえ消えれば、頼は解放されるのだ。 嫌だ嫌だと泣く頼を落ち着けるために、夏生はつとめて優しく言った。 「俺にとっても、お前は弟なんかじゃなかったよ」 「なっちゃん……」 「好きだ」 だから絶対に、幸せになれ———— 頼の涙が、雨のように降ってくる。 夏生はそこで、手を振り切ってしまうつもりだった。 しかし頼が泣きながら笑うものだから、夏生は拍子抜けしてしまった。 「じゃあ、幸せになる」 頼の顔は穏やかだった。 その白い頬と茶色い髪が光に照らされて——-やはり光を帯びているように見える。 「一緒に行くね」 その一言とともに、体が浮遊した。 ばか、という暇さえ与えてもらえなくて——やはり、頼らしいと思った。 頼の体が近くにあって、必死で引き寄せた。 ばかな頼。 危なっかしくて、自分を大事にすることを知らない、愚か者。 ——すさまじい衝撃だった。 身体中になにかが刺さり、遠くで鈍い音を拾った。 頼。 頼。 頼はどこ? お前は死ぬな。 お前だけは———— 突然、電気を消されたように、目の前が真っ暗になった。
/158ページ

最初のコメントを投稿しよう!