Trench 《トレンチ》

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 ここ最近、日暮れ前はいつもこうだ。  こちらの塹壕は敵から見て東側に当たるので、陽が西に沈む『逆光で相手が一番見えにくい』時間帯は敵の攻勢が激しくなる。  この時はこちらも『見えている』『見えていない』に関わらず、とにかく撃ちまくるしかない。何しろそれで怯むような事があれば、敵兵は塹壕を飛び出して一気に攻めてくるだろうから。  ……戦線が膠着しやすい塹壕戦で、一度奪われた支配地域を奪い返すのは決して容易ではないのだ。  やがて太陽が西の地平線へと姿を消した。  辺りを、夜の闇が支配し始める。  僕は日没を待って、塹壕を前線基地に向かって帰途に着く。日没直後は敵も夜目に慣れないから、砲撃を休んで守備に専念するからだ。  まるでネズミのようにトボトボと塹壕の中を戻るこの時間帯が、一日の中で一番ほっとする。「ああ、今日も生き延びたんだ」と実感出来るのだ。さっきまで殺気立っていた兵士達も、今は塹壕の中にゴロリと身体を横たえていた。  ……実際、これほど大変な現場だとは思ってもみなかった。  故郷で食い詰め、やっと辿り着いた先でありついた『仕事』である。生き死にを賭けるほどの覚悟は正直、無かった。だが、今はそれしか生きる道が無い。  ふと、僕は目の前に立ちふさがる土壁に足を止めた。 「ここは……?」  さっき臼砲(モルター)の爆撃を受けた所が、まるごと土砂で埋まっている。  ……中を掘る必要は、多分あるまい。誰も手を付けようとせず、放置されたままだ。 「仕方無い。少し戻って、別のルートから帰ろう……」  土塊の山に、それ以上の感傷は無かった。  足元に注意しながら塹壕を引き返し、別ルートから進む。    この塹壕も随分と距離を伸ばしているし、爆弾の威力を周囲に伝えないためにジグザグの構造になっているから戻るのにも一苦労である。腹は減っているし足も痛いが、そんな事を言ってられるような状況ではない。……何しろここは最前線なのだから。  するとその時。 「よぉ……若造、生きてたか」  暗闇の中から、老兵のしゃがれた声が僕を呼び止めた。 「その声は、おじさんですか……」  夕闇の中、僕は目を細めて声のする方を向く。迂闊に灯火を着ければ敵兵にこちらの居場所を教えることになるので、暗いまま我慢するしかないのだ。 「ああ。ワシも生き延びたよ、どうにかさ。……それにしても今日はまた一段と厳しかったな……弾丸が、底を尽きかけてたぜ……」  くく……と嗤う声がする。  戦闘が長引く中、兵士に配給される弾薬も少しづつ数が減っているのだ。どうしても弾幕が薄くなる分、敵に追い込まれている感は否めない。 「腹減ったなぁ……今日は飯が食えるかな?……昨日は補給線を切られて何も食えなかったけどよ……」  老兵が寂しげに呟く。 「ええ、大丈夫だと思います。昨晩、工兵さん達が徹夜で塹壕を直してましたから」  僕は、その老兵の横に座り込んだ。 「そうか、そりゃ楽しみだ」  老兵が安心したように皺と傷だらけの指を、腹の前で組む。……いったい彼はどれほどの死線をくぐり抜けて来たのだろうか。  僕らは互いに顔見知りだが、互いの名前を知らない。それは、この老兵が僕に教えてくれた『戦場の流儀』。   「なぁ若造よ。ワシは仲間の名前を覚えないようにしてるんだ。ヘンに名前を覚えるとソイツが戦死した時に『引きずる』からよ。ワシも、他人に名乗る事は止めたさ。ただの『爺イ』でいい」  戦地では、当然のように人が死んでいく。だから、いちいち引きずってはいられない。  そう言って、老兵は乾いた笑みを浮かべた。  そうして僕らは互いを『おじさん』『若造』と呼び合うことにしたんだ。いつ死んでも、後腐れの無いように。
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