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「……なぁ若造、ひとつ聞くけどよ」
老兵の見上げる頭上に、月の明かりが差し込んでいた。ぼんやりとした光に、多少は互いの顔を認識出来る。
「お前さん、まだ若いんだろ? なのに何でそんな立派な髭を生やしてんだ?……そんな爺イ臭ぇ髭をよぉ」
老兵が、俗に『プロイセン髭』と呼ばれる鼻下に長く伸ばした僕の髭をツンツンと引っ張って戯ける。
「……僕、ニーチェに憧れたんです。哲学者のニーチェです。い、妹の影響なんですけど……はは」
照れくさくて、僕は下を向いた。
「はは!そうかい、そうかい。で、ニーチェの真似をして髭を伸ばしてるってわけか!そりゃ傑作だぜ!」
老兵がカラカラと笑う。そして、急に真顔に戻った。
「……だがな、塹壕で生き残りたかったら『それ』はヤメとけ。毒ガスが来たら、イチコロだぞ?」
塹壕戦で有効な兵器のひとつが『毒ガス』だ。
ひとたび塹壕に投げ込まれれば、溝の底を這うように拡散して敵を殲滅していく。それも最近は単なる塩素ガスだけではなく、より強力なマスタードガスも投入されていると聞く。
立派な髭が、ガスマスクの邪魔になる……と、老兵は忠告してくれているのだ。
「はは……そうですね。でも、この髭は僕のアイデンティティですから」
僕は小さく首を横に振った。何しろ結婚を誓いあった故郷の彼女が褒めてくれた大事な髭なのだから。簡単には、剃れない。
「ふん!勝手にしろや」
ゴロンと、老兵が身体を反対向きに転がす。
「まぁ、好きにすりゃぁいいさ。いざとなっても、ワシはお前を助けたりゃぁせんからよ。そんな事をしたら、自分の命が危うくなるからな……」
僕はふと、老兵に尋ねた。それはこの数日、特に感じる大きな不安。
「……この戦い、僕達は勝てるんでしょうか?」
だが、老兵は闊達に笑い飛ばして見せた。
「がははは!決まってるじゃぁねぇか! 負ける訳がねぇよ!」
そう言って老兵は起き上がり、僕の肩を力強く抱きしめる。
「よぉく、考えてみろや! ワシらは、間抜けなアイツらより頭が悪いか? チビなアイツらより体力が無いか? ケチなアイツらより財力が無いか? 貧乏臭ぇアイツらより兵力で劣るか? どうだ?」
「それは……負けてないと思います」
それは決して身贔屓でも何でもなく、正直な感想。
「なら、そういう事だ。……何も心配はいらねぇさ」
老兵はそう言って、夜空を見上げた。
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