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だが老兵の言葉に反し、戦線は日に日に激しさを増していた。
以前は時折でしかなかった臼砲も『効果的だ』と思われたのか、最近は頻繁に撃ち込んでくる。
そのせいで虎の子の塹壕も寸断され始めており、前線基地から指揮所まで走るルートの確保も、厳しくなっていた。
ドド……ォォ……ン!ドド……ォォ……ン!
連発して臼砲の音が聴こえてくる。
「くそ……っ!この分じゃぁ、昨日通ったルートも使えるかどうか……」
僕は右手に伝令缶を握りしめ、土煙の上がった方角を見やった。
「とにかく、先に進むしかないな……」
地下水が染み出して泥濘む足元に注意しながら、指揮所が『生きている』事を信じて再び走り始める。
パパパパパ……パパパパパ……!
「撃て撃てぇ……! そっちだ、そっちの隅から撃ってきてるぞ!よく狙うんだ!」
悲鳴と怒号が狭い溝の間を交錯する中、時折「ぐぉ……!」とか「ぐわっ……」とか短い悲鳴を残して味方の兵士が塹壕の中に倒れ込んでいく。敵の狙撃は、かなり正確なようだ。
それを横目を睨みながら、僕は尚も先へと急ぐ。
……分は、決して良くない。状況はかなり悪いと見える。
「ぐ……っ! 何てこった! ここもダメか……」
僕は足を止めた。確かに昨日まで使えていた筈のルートが、土砂で埋没しているではないか。
すると。
「よぉ……誰かと思ったら、若造か」
声の主は、あの老兵だった。銃を降ろし、僕の両肩をがっしりと掴む。
「……いいか若造、お前はもう諦めて基地に戻れ! 最前線の指揮所辺りが爆撃に遭ったからな……ありゃ、助からん」
土と煙で灰色に煤けた老兵の横顔にも、余裕は無かった。
「しかし……」
僕が言いかけた時。
ドン!と音がして、赤茶色をした缶のようなものが塹壕の中に落ちてきた。そして、コロコロ……と僕たちの真横に転がって来る。
「危ねぇっ!毒ガスだっ! 逃げろ!」
老兵が大声で叫ぶ。
投げ込まれた缶はシュー……と不気味な音を立て、見た事のない黄色い蒸気を噴き出し始めた。
……しまった! これが、毒ガスか……!
とっさの事に、思わず足がすくむ。
走り回るのに邪魔だから、僕はガスマスクを持っていなかった。……ダメだ、どう考えても『足』より『ガス』が蔓延する速度の方が早い。
……もはや、これまでか!
死神の大鎌が、僕の細い首に掛かった気がする。……ああ、今日は『僕の番』だったか。
その時、何かが僕の視界を覆った。
それは老兵が常備していた『ガスマスク』だった。それを、老兵が僕の顔に押し付けたのだ。
「うぐっ……」
慌てて、そのガスマスクを両手で抑える。
「行け……このまま逃げ切れっ!」
背中越しに、掠れかけた老兵の絶叫が聞こえる。
それが正しい選択なのかどうかは分からない。
しかし、何しろ僕は死にたくなかった。僕はガスマスクを抑えながら必死に逃げた事だけを覚えている。
意識の、ある限り……。
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