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半年近い入院生活の後、僕は荒廃しきった街に出た。
敗戦の爪痕は深く、道ゆく人々も俯きがちに意気消沈したままだ。
経済は混乱し、政府が無分別に発行する紙幣の束が風に舞っている。
僕は陸軍の兵務庁に向かっていた。伝令係は臨時で正式な兵員ではなかったので、再び戦線に出るには正式な所属が必要だったからだ。
……このままでは終われない。
それが、この半年で僕が出した結論。
あの老兵は、僕に言ったではないか。『我々は負けるはずがないんだ』と。その言葉を僕が証明してみせる。きっと、おじさんは僕に託してくれたんだ。『ここから先は、お前に任せる』と。だから僕だけが助かったんだ。
ならば、そこから先に勝利への道筋をつけるのが、僕の使命……いや、天命なのではないだろうか。
今は確かにダメージも大きいかも知れない。だが、いつか必ず……。僕は拳に力を込める。
「ここか……」
灰色にくすんだ空の下、僕は石造りの重厚な建物を見上げた。
ガラン……としたホールを抜けた先にある窓口に、ガッシリとした体格の将校が退屈そうに座っている。
「あの……陸軍に入隊したいと思って、やって来ました」
おずおずと声をかけると、将校が『こんな時にか?』と言わんばかりに顔をしかめる。敗戦直後に『兵に加わりたい』と申し出る変人なぞ、そうはいるまい。
「……細い身体だな。そんな体格で戦えるのか?」
将校がジロジロと、僕の身体を見回す。
「だ、大丈夫です! 怪我で長く入院してましたが、もう退院したので。そ、それに情報関連でしたら経験もあります!」
「ふん……物好きなヤツめ。まぁ、いいだろう。だが、その格好は何とかしろ。兵士たるもの、いつも身奇麗であらねばならん。……その、うっとおしい長髪と、『髭』だ」
面倒くさそうに頬杖をついたまま、将校が僕の顔を指差した。
「は……はい……」
僕は思わず言葉に詰まる。
髪はともかく『髭』か……。だが、この長い髭を愛してくれた彼女は、もうこの世にはいないのだ。拘りを持ち続ける必要もないのかも知れない。
躊躇する僕に将校が「全部でなくとも、せめて口髭は短くしておけ。塹壕ではガスマスクの邪魔になるぞ」と溜息をついた。
……ああ、そうだった。そうだな。確かに、その通りだ。
その瞬間だった。僕の心にスイッチが入ったのは。
そう、『新たな自分になる』というスイッチが!
俄然、闘志に火が着き始める。
……見てろよ、僕はこの陸軍でのし上がってやる。あの屈辱の塹壕から這い上がるんだ!
……そして今は亡き愛しい彼女、ラウバルよ。何れ僕が天に召される時が来たならば、僕は君にこう言うんだ。「何で僕より先に死んだんだ!生きてさえすれば君は売れない画家の妻ではなく、高級将校夫人として不自由ない生活が出来たのに!」って。……そう自慢してやるんだ、必ず!
「……忘れていたが、貴様の名前を聞いて無かったな。お前、名前は?」
将校が書類を手繰り寄せた。
名前……そうか。ここからはもう、僕はいつ死ぬか分からない只の『若造』なんかじゃぁないんだ。これは僕が記す新たな歴史の1ページ目。我が闘争の始まりなのだ!
僕は靴の踵をカン!と鳴らして揃え、背中をそびやかし、右手を高々と頭上に掲げて叫んだ。
「はい! 自分の名前は、アドルフであります!」
完
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