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300年前
街の中心に開かれた広場に、小さな切り傷が出来ていた。
空を引っかけたように、黒い線が、わたしの顔の高さで浮いている。
四方八方から、黒い線――『世界の綻び』を見つめた後、わたしは衣の内側に手を突っ込んだ。へそから伸びている金色の糸を掴み、引き取り出すと、その黒い切り傷にくるりと巻きつけた。解けないように結んでから、両手を合わせる。
「マフル様。ヒトの子らに愛を」
そう願うと、金糸が白く輝いた。
目が眩むほどの光を放った後、金糸も黒い傷も消える。
わたしのへそからはちょこんと金糸が垂れている感覚があるが、さっきまでの長さはもうなく、衣で隠れてしまっていた。
――修繕完了だ。
零れもしない溜息を吐いた気持ちになりながら、周りを見やる。広場では無数の人々が行き交っていたが、誰もわたしを見ていなかった。
宿屋と記された看板を立てた、木組みの建物が目に入る。わたしは周囲を気にしながら、おそるおそる建物に近づくと、戸を押し開けた。
「いらっしゃい!」
口元にたっぷりと髭を生やした男が、大きなエールジョッキを掲げ、朗らかな笑みでこちらを見やる。
しかし、わたしの表情を見た途端、彼は眉を跳ね上げた。
恥ずかしそうにジョッキをテーブルに置くと、部屋の隅で焚かれている火の前へと移動した。わたしに背を向けて、火に炙られている料理鍋の様子を見始める。
火に照らされる男の顔には、もう笑顔はなかった。
「あの、お話を聞いて欲しいんですが」
勇気を振り絞ってそう言えば、男は飛び上がった。振り返った顔には、ありありと恐怖が貼りついている。
「おっ、俺は修繕されるところなんてねえ!」
「ちが、そうじゃなくて、ただ話を――」
わたしの話など聞かず、男は木のスプーンを投げ出すと、宿屋の奥へと逃げてしまった。
野菜や肉の塊が浮かんでいる白い液体が、鍋のなかでグツグツと煮えていた。傍に近づいて、人差し指をさしこんでみる。熱さは感じられなかった。指先についた液体を舐めても、味も感じられなかった。
わかりきっていたことだ。再び、吐けない溜息を吐いた気持ちになって、わたしは宿屋を出た。
大通りに出ても、誰もわたしのことを見ていなかった。まるでこの世にわたしなど存在していないかのようだった。
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