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200年前
「ありがとお」
元気よくかけられた声が、自分に向けられたものだと、気が付かなかった。
頬を刺すような視線を感じて、振り向くと、わたしの腰くらいまでしか背丈のない小さな子供が、太陽のような笑みを浮かべて、わたしを見上げていた。
「おねえちゃん、ありがとう!」
わたしに礼を言っている?
――気が付いた途端、信じられないほど嬉しかった。胸がきゅうと締め上げられる感じがして、そこからあたたかいものが広がる感じがあった。指の先まで熱が届くような気がした。
微笑み返して、あげたかった。
それでもわたしの表情は凍り付いたように動かない。無表情で見つめていることしかできない。
急いで口を開こうとすると、私が返事をする前に、母親らしき人物が子供の手をとった。
「マフラーにお礼なんて要らないの! 行くよ!」
あたたかく広がっていたものが、一気に冷え切った感じがした。
わたしを見つめていた子供が、もう興味を失った様に顔を逸らし、母親と共に去っていく。つないだ手はとても暖かそうで、母子は互いに幸せそうな、愛に溢れた笑みを交わしている……。
「そちらの修繕は済んだか」
いつのまにか、背後に別のマフラーが立っていた。振り返れば、彼は凍り付いた無表情のまま、わたしを見ている。こくりと頷けば、彼は踵を返した。
「では次の街へ行こう」
声に抑揚はない。いや、声どころではない。彼に感情はない。
マフラーに感情はない。
この世界を守りしマフル神。その神に作られ、世界の綻びを修繕し、恵みを与えるもの、マフラー。
わたしも彼もマフラーで、わたしたちには心臓も感情もない。世界に綻びが生まれれば、それが不幸を呼び込む前に、金糸を巻き付け、マフル神に祈り、直してゆくだけだ。
ただ、ただ、淡々と……。
「あの」
わたしは前方を歩くマフラーに声をかける。彼はまるでヒトのような滑らかな動きで振り返る。わたしたちは、見た目はヒトそっくりだ。なのに中身は違う。
「さっき、ヒトの子に、お礼を言ってもらえたんです。数百年生きてきたけど、わたし、初めてで……」
彼は目を丸くした、ように見えた。実際の表情は何も変わっていない。
しばらく見つめ合った後に発された、彼の答えはこうだった。
「ヒトがマフラーにお礼を言うのは、ヒトのヒトとしてのならわしであり、綻びではない。したがって、修繕の必要なものではない」
わたしは泣きそうになった。涙なんて出やしないのに。
マフラーに感情はない。それは、マフル神の慈愛のおかげだという。マフラーは生まれると様々な街や村を巡り、世界の修繕のためだけに生き、金糸を生み出す力を失った時、死ぬ。そしてまた魂を回収され、生まれ直す。
そんな繰り返しの生に、感情は不要だった。長旅を共にしたマフラーと、あっさりと別れることもしょっちゅうある。何日もかけて悪道を通り、獣に食われてしまうこともある。壮絶で孤独な旅に、感情があっても辛いだけだ。
――じゃあ、どうしてわたしにはあるの?
わたしは他のマフラーとは違う。わたしだけが違う。
わたしだけが、感情を持っていた。嬉しい、悲しい、寂しい、辛い、怖い……それらの感情には、はじめ名前がなかった。わたしは他のマフラーたちも内心では似たようなことを感じているのだと思っていた。
生まれて百年近く経った頃、ヒトの絵本を手にした。文字の読み方を覚え、ヒトの書いた物語を読み始めた。そして知った。
これは、感情だ。
感情は、他のマフラーにはない。
驚いて、わたしはマフラーたちに出会うたびに、そのことを相談した。
彼らは繰り返しわたしに尋ねた後、答える――「お前は欠陥品なのだろう」と。
誰に聞いても、おなじ。まるで全員が同一人物かのように、みな「欠陥品だ」と言う。
実際にそうなのだろう。マフラーに感情は要らない。わたしだって、他のみんなと同じように、感情がなかったらよかったのにと、何度思っただろう?
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