序章

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序章

人の行き()(にぎ)やかな大通りを一本入ると、急に町はその姿を変える。 大型の車も通れない細い道には、数件の居酒屋やそば屋、 ラーメン屋が(のき)を連ねている。 その中の一つ、濃紺(のうこん)の大きな暖簾(のれん)が下がる居酒屋『燕子花(かきつばた)』。 私は気持ちが落ち込んだときや、淋しくなった時にこの暖簾(のれん)をくぐる。 「こんばんは。」と声をかけると 「いらっしゃいませ!」と元気な声が重なって迎えてくれる。 私は一番隅のカウンターに通してもらう。 そこが私の定位置だ。 女性ひとりでここに来るものだから、 すっかり若い店員さんとも顔見知りだ。 ここ数十年で数度の改装があり、店の中は変わってしまったけれど それでもやはり通ってしまう。 首を伸ばして厨房(ちゅうぼう)をのぞき込んでも、あの人はいないのだけれど 何故かここに来ると、ふいにあの人が 昔と同じように笑顔で来てくれる気がする。 私も以前ここであの人と一緒に働いていたのだ。 世間知らずで、若くて幸せだった私を、あの人はどう見ていたのだろう。 「お待たせしました。」 いつものようにお刺身の盛り合わせと、汁物と御飯と、 見繕(みつくろ)われた突き出しを、何も言わなくても並べてくれる。 お礼を言って、ゆっくり箸を運ぶ。 私の至福の時間。 あの人との思い出の時間。 私たちはここで出会ったのだ。
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