第三章 好き

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 おいしい  「そう言ってもらえると、作って来たかいがあったよ」  本当においしい  いつのまにか私は自分が食べるのを忘れて、彼が食べるのをただ見つめていた。  どうしたの?  「ううん。君があんまりおいしそうに食べるから、つい……。私はそんなに食欲ないから全部食べてもいいよ」  まだ落ち込んでるんだね  「そういうわけじゃなくて、今はただ自分が食べるより君が食べるのを見てる方が元気な気持ちになれるだけなんだ」  それで君が元気になれるならいくらでも食べてみせるよ  そういえば昨日も私の分のおにぎりを彼に食べさせたのだった。私はよっぽど彼の食べる姿を見るのが好きらしい。  「カンちゃんが私を元気にしたいというなら、一つお願いがあるのだけど」  言ってみて  「私は、みんなに知られたらとても生きていられないような秘密を全部君に話してしまったよね。君と話すとき私ばかり恥ずかしい気持ちになるのは不公平だと思う。だから君も私に人に話せないような恥ずかしい秘密を教えてほしい」  どう考えても無茶振りだけど、優しい本郷君は私の無茶振りをかわそうとするのでなく、正面から応えてくれた。  中学のときの話だけどいい?  「いいよ。書いてみて」  本郷君はいつもスケッチブックに書くときに使ってるマジックをペンに持ち換えて何やら長々と書き始めた。書き終わるまで五分ほどかかった。こんな余計な面倒をかけて悪いことしたなと思った。渡されたスケッチブックの細かい字面は彼らしく几帳面さを感じさせると思ったけど、よく見ると全体的に丸っこい字が多く微笑ましい気分になった。  筒井さんは僕と違う中学だったから知らないだろうけど、僕は一度だけ学校で言葉を話せたことがあったんだ。  君は僕が高校に入って初めてできた友達だけど、実は中学でも一人だけ友達がいた。でも分からない。僕がそう思ってるだけで彼女はそう思ってなかったかもしれない。  彼女は今の筒井さんみたいに毎日明るく僕に話しかけてきてくれた。また、僕がクラスメートにからまれてるのを見れば必ず止めてくれた。  ある日、いつも僕をからかってくる男子たちがまた近寄ってきた。  「カンちゃん、おまえいつも女に助けられて恥ずかしくならねえの? おまえ、あいつのことどう思ってるんだよ」  何を思ったってどうせ声になることはない。僕は安心して思ったことを心の中で言葉にした。  「好き」  なぜかそのときに限って、僕の思いは言葉になって声となって口から出てしまった。  「おい、今、カンちゃんが〈好き〉って言ったぜ」  「確かに言った!」  「おいみんな! カンちゃんがしゃべったぞ!」  教室中が大騒ぎになった。  「おれは聞いてないからもう一度しゃべれ!」  って大勢に責められた。  僕がしゃべった言葉を彼女に伝えに行く人もいた。  その一件のせいか、彼女は二度と僕に話しかけてこなかった。  そうなってから気づいたけど、僕はたぶん彼女に恋してたんだと思う。  それから僕が言葉を話せたことは一度もない。もう誰も僕と友達になってくれないんじゃないか。君と会うまでそんなふうにすっかりあきらめていた。  誰にも話したことない僕の初恋の話でした。  少しは君を元気にすることができたかな?  「すごく元気になった。それは君の話が恥ずかしい話だったからじゃない。君がしたような美しい恋をいつか私もしてみたいと思ったからだよ」  違う! と思った。  本当は、そんな美しい失恋をした君に愛されたいと思ったからだ。もちろん無理だと分かってる。分かってるから口にはしないけど、そのとき私は溢れる感情を抑えきれなくて身悶えするほど狂おしかった。  「スケッチブックのこのページ、もらってもいいかな」  本郷君は首を横に振った。  「お願い! もちろん誰にも見せない。心が弱ってるときそれを見ると、そのときどんなにつらくても立ち直れそうな気がするんだ。だから――」  君は仕方ないなという表情になってガリガリとそのページを切り離して、ほらっという感じで私に手渡した。  「ありがとう」  君はうなずきもせず首を振りもせず、ただ照れ隠しのようにまたサンドイッチを食べ始めた。  君が私を好きになることはないだろうけど、何があっても私は友達として絶対に君を見捨てたりしない! 君から受け取った紙で流れる涙を隠しながら、私は心に固く誓った。  君のことを考えることに夢中で、私たちの方に近づいてくる人がいることに全然気づかなかった。  背後から迫る人の気配に気づいたとき弟の雄太だと思った。重症のシスコンだから、私といっしょにいる本郷君に怒ってるはずだ。面倒なことになったと動揺した。  でも振り向くとそこにいたのは雄太ではなかった。私たちと同年代の女の子。背は私より高い。ツインテールの髪型がかわいらしい印象を与えるけど、頬を膨らませてなぜかめちゃくちゃ怒ってるから、かわいらしい感じが台無しになっている。怒れる美少女。そういうキャラが好きな男子も意外といるのかもしれない。  まさか本郷君の初恋の女の子? 話を聞いたばかりで話に出てきた人物が現れるなんて、そんな偶然がありえるのだろうか?  女の子がベンチの前に立ち止まる。機嫌悪そうに腕組みして爪先で地面を蹴った。危険を感じて思わず立ち上がる。  「あんた誰?」  彼女は本郷君ではなく明らかに私に質問した。初対面のあなたに〈あんた〉呼ばわりされる筋合いはないと思うんですけど。  本郷君がまた何か書き出した。
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