事件の表裏――それぞれの葛藤

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 「ない」と気づいたのは、職員室に戻ってしばらく経った後だった。隣の席の本郷先生が「七時か」とまだ明るい外を見ながら呟いた時だ。俺も時刻を確認して「ですね」とでも相槌を打とうとした時だ。  腕時計が、ない。  あの時、プールサイドに置いたじゃないか、と一瞬で思い出し、俺は慌ててプールめがけて走り出した。「松岡先生、廊下は走っちゃいけないよ」と暢気な本郷先生の声も、今の俺には届かない。  生徒たちに「先生の泳ぎも見たい」と言われ、「もう歳だから」と断るも、我儘な中学生たちは聞く耳を持たなかった。助けを求めて同じく水泳部の顧問、上野先生を見るも「松岡先生まだ二十五でしょ」と苦笑されるだけだった。  そこだ。脳内で、二時間ほど前の記憶のページをめくっていた手が止まる。「仕方ないな」と言いながらも、どうにか生徒たちの前でかっこよく泳いでやろうと、心の奥底で闘志を燃やしながら、俺はプールサイドに自分の腕時計を置いたんだ。どうか置いたまま、そこにあってくれよ! あれは就職祝いに父が買ってくれたものなんだ……!  しかし、俺の願いも虚しく、探している黒い腕時計は影も形もなかった。俺は肩を落としながら、とぼとぼと職員室に戻るしかなかった。  校内の忘れ物を管理している本郷先生には「腕時計の忘れ物はないな」と言われ、上野先生にも「外しているところは見たけど」と言われる始末。ああ、帰って父になんて言おう、とため息をついた時、女性教員たちのひそひそと話す声が聞こえた。  「もしかして、誰か盗んだ?」「水泳部って問題児多いもんね」  その言葉は俺の心にぐさりと刺さった。瞬時に浮かぶ三つの顔――翼、哲夫、孝弘。あのやんちゃな三人組の誰かが――。そこまで考えて、俺はめいっぱいかぶりを振る。いくら何でもあるわけない。教員の時計を盗むなんて。しかし、あの三人、休日にはバイクを乗り回しているという噂もあるくらいじゃないか。いやいや、教師である俺が生徒を疑うなんてだめだ。三人の顔が順々に頭をめぐる。お調子者の翼。怖がりの哲夫。頭の回転が速い孝弘――。だめだ、と必死に思っても、三人の顔は俺の脳内にこびりついたように剥がれない。盗むなんて絶対ないはずだ。  ふと窓の外を見ると、陽は落ちて真っ暗になっていた。窓ガラスに映る俺の髪がぐしゃぐしゃになっている。
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