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マリエさんの恋
「オーナー、お疲れ様でした。いつものを入れてもらいますね」
フロアマネージャーのミサキは、気遣いのタイミングを決して間違えない。
「こう取材が続くとね」
「ミシュランの星というのは、まだ日本ではすごいですね。
新しく付く店は限られていますし。
この店は、むしろ遅過ぎたと思いますけど。
・・・良かった」
「そうかな、いつも来ていただいているお客様のために、
早くこの騒ぎが収まるとよいのだが」
夜の仕込みが始まろうといている厨房を眺めながら、心を落ち着かせるように、紅茶の香りを味わった。
目を閉じた。
カウンターに肘をつき、手のひらで顔を覆う。
瞼の裏の追憶の中を、幾つもの厨房の光景が次々と流れ去っていった。
そっと長く息を吐いた。
「オーナー、ずっと訊きたかったことが一つあります」
「何だろう」
「オーナーがこれまで出逢ってきた数々の店の中で、1軒だけ、
もう一度そこに行けるとしたら、どこを選んで行きたいと思いますか?」
迷うことはない・・・
「トレビスのエレナ」
「聞いたことがありません。
新しい店ですか?
トレビスって、野菜のラディッキオ・ロッソのことでしょうか?」
「そう、エレナはその店のシェフの名前。
彼女は、イタリア人でトレヴィーゾの出身だった。
野菜のエリナ、オーナーのマリエさんらしいネーミングだった。
店の名前にシェフの名を入れることにはこだわったのだと思う」
「もう、ないんですね」
「1982年11月から3年足らずの短い間、兵庫県の芦屋にあった」
「何が特別だったんですか?」
「伝えられるだろうか」
「教えてください」
ミサキの瞳が真剣なのは分かった。
「僕が聞いたこと、見たこと、感じたことだけを話すよ。
それで、君の求めていることに答えられるかは分からない。
それでも、いいかな?」
「もちろんです」
カウンターに腰掛けるようにミサキを促した。
※ ※ ※
学生の頃、自分は何に対しても消極的で無気力だった。
当然のように滑り止めに受けた大学に行くことになった。
夏休みの前に、その大学の講義にすら興味をなくした。
つまり、19歳としての居場所をすっかりなくしてしまっていた。
親がまずいと思ったのだろう。
友人が店を始めるから、手伝うようにと通告を受けた。
「嫌なら家を出ろ」と言われて、マリエさんに会いにいった。
10歳くらい上の人かなと思った。
後から30以上も歳が違うと知ってびっくりした。
艶やかで明るい笑顔が素敵な女性だった。
いつも大きなリングのイヤリングをしていた。
可笑しそうに顔を揺らす度、光を放つリングが囁くような音を立てた。
さっさとクビになればいい。
それなら親には何もできないだろう。
そう思って会いにいった自分。
ところが、すっかりマリエさんのペースにはまってしまった。
一緒の空間で過ごすだけで、どうにも居心地よくなってしまう。
マリエさんはそういう人だった。
つまり、トレビスのエレナは、客として入った店ではない。
何もできない19歳の男の子が、下働きをさせてもらうために入った。
初めてのレストランだったわけだ。
マリエさんの話から始めよう。
マリエさんの実家は、穀物問屋に始まり、貸倉庫業、不動産管理業、さらには生活雑貨の輸入といった事業にいたるまで、時流を読み違えることなく、代々続いてきた旧家で、マリエさんはその一人娘だった。
住み込みのお手伝いさんがいて、下校時には、学校の門の前に静かに車が止まる。
それを日常として受け入れて育つしかない、そういう家だった。
心に垣根がなく、誰からも好かれる人だったから、
想いを寄せた人は少なくなかったと思う。
なのに、
長く一度も本当の恋はしたことがなかった。
それには、少なからず家のことが影響していただろう。
そんなマリエさんに、
運命は、特別な出逢いを用意していた。
笑いながらケンジさんとの馴れ初めを話してくれたマリエさん。
「生徒に手を出してしまったの。しかも15も歳下のね!」
当時、今のカルチャースクールに近いようなサロンがあった。
講師は専門家ではなく、特定の分野に詳しい知り合いを呼んで話を聞く。
修士課程では色彩論を専攻し、
年に数ヶ月はプロバンスを拠点に、ヨーロッパ中の美術作品を見て回る。
そんなマリエさんの、絵画愛に溢れた講義には人気があった。
ケンジさんは、
そこで生徒になり、
最初の講義の間に恋に落ち、
最終回後の交歓会の夜に告白した。
「驚いたわよ。
晩年のマチスのフォルムの伸びやかさ、
美しい色彩なんかの話をしていたら。
男の子が来て、ずっと一緒に居たいから、付き合ってくださいって。
突然言い出すのだから!」
もちろん、マリエさんは冷静だったし、
ケンジさんの気持ちに応えられないことを何度も伝えようとした。
家のことも、年齢のことも全てを伝えた。
けれど、
結局は、
ケンジさんの強い確信を覆せなかった。
どんな形であれ、いずれは出逢い一緒になる運命だっただろう。
二人を見ていれば、それは程なく分かることだった。
ケンジさんのエスコート振りは完璧で、
どんなシーンでも、マリエさんの意図を先読みした。
目線を交わし合うだけで、総てが流れるように進んでいく。
まるで、
いつも美しい社交ダンスを観ているように感じたものだった。
そんな風に二人がパートナーとして人生を伴に歩き始める前。
7年間の大恋愛の間、マリエさんは3度本気で別れようとしたという。
愛しているから、
先に老いを迎える自分、
子どもも残すことのできない自分に、
ケンジさんの未来を奪うことはできない。
3度目に、とうとう行き先を告げず、
マリエさんはパリへと移住してしまった。
ケンジさんは、すぐに仕事を整理して後任に託すと会社を辞めた。
覚悟の別れから2ヶ月が過ぎ、
チュイルリーのベンチで、パリの初夏の夕暮れに浸っていたマリエさん。
閉じていた眼を開くと、そこに手を差し伸べてケンジさんが立っていた。
忘れたことのないその手を握り、立ち上がる。
抱き寄せられ、胸の中で、泣けるだけ泣いて。
2度と離れるようなことをしない、と約束させられた。
一緒に日本に帰ってきて、改めて二人だけの誓いを立てると、
友人たちに披露パーティの案内を送った。
淡路島のリゾートホテルのプールサイドを貸し切って、
夕陽が海に照らす時間から始まったパーティ。
マリエさんの友達のアーティストが用意した何百というキャンドルが、夜風に揺れる。
とてもとても美しくて、会場をみて泣き出してしまった女性がいたという。
そんな風に、
二人の幸せな暮らしが始まって、
そして、マリエさんは店を始めることを決めた。
「幸せすぎて、誰かとシェアしないと溶けちゃいそうだったのよ」
そう、マリエさんは言っていたけれど、
何かを、二人で生きていく上での証しとして、生み出したかったのだと思う。
これが、オーナーのマリエさんが、トレビスのエレナを始めるまでの物語。
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