執事が見た夢

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執事が見た夢

「お帰りなさいませ、お嬢様」  ドアが開いた途端、執事のほほえみと優しい声が降ってくる。私は立ちつくし、まばたきすることも忘れた。  執事喫茶、という商売がある。お金と引き替えに、一時の夢を売る商売。  作り物の夢だと知っていても、夢に魅入られた客は足しげく通う。私もそうだ。作り物の夢の中に、恋という勝手な夢を見出してしまった人間。一度入り込んでしまったら、容易には抜け出せない世界だ。それをわかっていながら、私はこの世界に入り込んだ。  今日も私は、革張りのソファに座り、ぼんやりと執事の後ろ姿を見ていた。紅茶の香りも、ケーキの甘さも、ろくに頭に入ってこない。彼の歩く姿。メニューを指し示す指先。紅茶を入れ、ケーキを切る、何ひとつ無駄のない動き。その動きの細部までを見つめて、私はすべてを記憶しようとやっきになる。ここに来ることができない日にも、彼の美しい動きをすべて思い浮かべられるように。  今までここに何回来たか、私自身はもう覚えていない。メンバーズカードに押されたスタンプの数を数えればわかるかもしれないが、多すぎて数える気にもならなかった。それに、今のカードはもう十一枚目だ。スタンプがいっぱいになった十枚のカードも、もちろん大事にとっておいてある。  それだけ私は何度もここに通った。すべては、彼の姿を見るために。会うために、ではない。会って話をしたいなどと、そんな贅沢は望んでいない。ほんの少しだけ、遠くから一瞬だけでもいい。彼の姿を目にすることができれば、私はそれでいい。  この執事喫茶に来たことがない人間は、なんと馬鹿なことを、と思うだろう。けれども、私は本気だった。ここに来る常連たちも、きっと皆そうだろう。  ほんの一瞬の夢が、どれほど心を豊かにしてくれることか。どれほど自分の心の支えとなることか。この夢を味わったことのない人間には、きっとわからないだろう。  そんなある日。執事喫茶から『招待状』が届いた。常連客だけを招待する、特別なパーティの案内状だ。シークレットパーティだけあって、内容はすべて当日までのお楽しみ、と書いてある。  私は大喜びでパーティに出かけた。この日のために少し気取った洋服を用意して、パールのネックレスまでつけてきた。  けれども。  それは、私が見つめてきた『彼』の門出を祝うパーティだった。彼は自分の夢を追うために、この執事喫茶を辞めて新しい生活を始めるという。  私の手から、紅茶のカップが滑り落ちた。ほかの執事があわててやってきて、服やテーブルを拭いてくれる。さらに別の執事が、すぐに代わりの紅茶を持ってきてくれた。しかし私は、「そうじゃない」と言いたくなる。  そうじゃない。私が見たいのは彼の一挙一動。その流れるような動き。ひとつひとつが、まるで音楽のように洗練された手つき。私が見たいのは彼のその動きだけだ。  司会の声はまったく耳に入ってこないのに、隣の席の女性たちの声ばかりが、妙に耳につく。 「夢を追うためっていってるけど、本当は彼、結婚するんでしょう?」 「ええっ!? そうなの!?」 「そうらしいわよ。みんな噂してる。相手はほら……最近人気の……」 「えー……ショック……。でも相手が女優じゃあ、しょうがないよね」  彼女たちの言葉に、ますます私の気分は落ち込んでいく。  結婚。理屈の上では当たり前のことだと思うのに、私はそれが悔しくてならない。もう二度と、彼が執事として紅茶を入れる日が来ないなんて。彼がいないのなら、この執事喫茶に来る理由も、もうない。  それから数ヶ月。私は彼がいないショックから立ち直れないまま過ごした。  彼のいない執事喫茶に足を運ぶ気にはなれない。執事のひとりが、私のことを気遣う手紙を送ってくれたようだが、開封しようとも思わなかった。  執事喫茶に通うという目的を失った日々は、とても空虚だった。今まで自分が、あの場所に通うためにどれほどの時間を割いてきたのか思い知らされた。半ば生きがいと化していたのかもしれない。ほかになにをして時間を過ごせばいいのか、わからなくなってしまったのだ。  家の中で一人ぼんやりしていると、頭の中に彼の姿が浮かぶ。ドアを開けて迎え入れてくれる姿。紅茶を入れている姿。ケーキやお菓子を運ぶ姿。何気ない雑談に顔をほころばせる姿。  ああ、どんな方法でもいい。もう一度彼のあの姿を見たい。あの美しい指先を、流れるような動作を……。  それからさらにひと月がたち、ようやく私の気持ちは前向きに変わった。  今日から、私の新しい生活が始まる。  着慣れない制服に袖を通し、緊張しながら身支度を整える。制服には、少しのシワや汚れも厳禁だ。全身鏡に姿を映し、隅々まで確認する。これで大丈夫、と確認し終わったあと、改めて鏡に映った自分を見た。  真新しい黒の燕尾服に身を包んだ執事がそこにいた。  正確には、執事見習い、といったところだろうか。まだ、『彼』には遠く及ばないけれども、いつか『彼』のようなすばらしい執事になりたい。そのために、私は今ここにいる。 「あ、準備できた?」  先輩執事がやってきて、私の制服姿を改めて確認してくれる。 「うん、ばっちり。よく似合ってるよ」  そういう彼女のほうが、もちろん何倍も執事姿が似合っている。自然と頭が下がった。 「ありがとうございます。私も早く先輩のようになりたいです」 「期待してるよ。一緒にがんばろうね」  先輩に軽く肩をたたかれて、一緒に控え室を出る。  執事の仕事ぶりは目に焼き付いているけれども、自分でやるのは初めてだ。  緊張しながら、初めてドアの『内側』に立った。ドアの向こうで、今日のお嬢様が待っているのだろう。今度は私が、彼女たちを迎える番だ。  私も彼のように、すばらしい夢を見せることができるだろうか。動作ひとつで彼女たちを魅了するような、そんな存在になれるだろうか。  なりたい。  だから、ここにいるのだ。  私が見ていた一瞬の夢を、ただの幻で終わらせないために。  そして今日も一人、夢に魅入られた女性がこの場所に足を踏み入れる。 「お帰りなさいませ、お嬢様」
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