【短編】脱稿マフラー

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 少し考えてみて欲しいのだが、小説を書くというのは凄まじくすごいことである。 試しに、15万回ほど「あああ」とキーボードを連打してみると良い。すごく疲れるだろう? そんな重労働をやり通す、世の中の小説家及び小説家見習いはみんなすごい人たちである。  さて、晴れて小説家を目指すことにした私であるが、現実と言うのはかくも厳しい。簡単に言えば箸にも棒にもかからない。  『本を出す夢』と言うのは雨ごいと同じである。振るまで踊ればいい。だから、小説家になるのも同じことだ。本を出せるまで書き続ければよい。それこそ、何年でも何十年でも。実に簡単である。  と言うことで、私の何回目かになるかわからない雨ごい作業は、来る11月30日にひとまず終了した。長編小説の脱稿、および締め切り……である。  季節は初冬であった。3か月ほど引きこもって原稿をしていた私にとって、外の空気は刺すように冷たかった。 そうだ、マフラーを買おう。受賞祝いとは言わない。脱稿祝いにマフラーを買いに行こう。 ■ 私が今回書いていた小説は、現代日本を舞台にした小説であった。なので街に出かけると、まるで書いていた小説の中に侵入してしまったようなイメージを受けた。 あの小説の舞台は地方都市で、私が住んでいるのも地方都市である。地方都市には大抵の場合、駅前に大きなショッピングビルが立っていて、その中に「ぶてぃっく」なる店がたくさん入っている。 ファッションに疎い私は正しい名称を知らないが、とにかく服屋がたくさんあるところだと認識している。マフラーの1本や2本、取り扱いはあるだろう。ところで、小説を書いているのに、そんな知識で大丈夫か? 小説の中では連続殺人が発生していたが、私が住んでいる街ではそういったことは起きていない。人々はコートを着込んでいて、素知らぬ顔で行き過ぎている。 いつもこう思っている。現代の日本に色を付けるとしたら、灰色だ。特に冬と言うのは色味に乏しく、どのおじさんもおばさんも、黒っぽい色味に乏しいコートしか着ていない。かくいう私も、色味に乏しいすすけた茶色のコートを身に着けていた。 ということで、私はこの灰色の現代日本への反抗として、思いっきり派手なマフラーを買うことにした。この際メンズでもレディーズでも良い。ちょっと高いマフラーを買おう。 なにせ、前回マフラーを買ったのは5年前だ。少しぐらい高いマフラーを1本買ったとしても、ばちは当たらないだろう。 世間は休日だったので、店内は人があふれていた。外はあんなにも灰色で寒いというのに、店内は色とりどりの商品と、暖かな照明で溢れている。 誰しもこういうお店の中で服を買うはずなのに、外に出ると灰色になってしまうのはどうしてなのだろう? 私は、私が書いた小説の余韻にまだ浸っていた。あの小説は、腕を切り落とす殺人鬼の話だった。もしかしたら、あの小説の犯人が、店内に一般人として紛れ込んでいて、私とすれ違ったかもしれない。私は昔から、現実と妄想をごちゃごちゃにするのが好きだった。 彼はこういう服を選ぶのではないか。彼女はこういった白ニットを好むのではないか……そんなことを妄想しながら店内を回っていると、マネキンの腕がぼとりと目の前で落ちた。 私はマフラーを手に取りながら、目を丸くした。こんなことってある? ここには、目に見えない、腕を切り落とす殺人鬼がいるのかもしれない。もしかしたらここは、私の書いた小説の中なのかもしれない。 傍にいた女の子が驚いて泣き始めた。店員がどこかから飛んできて、落ちた腕を掴むと、マネキンにはめようとして、うまくできなくてやめた。店員はマネキンの腕をマフラーの隣において、どこかへと行ってしまった。 私は腕の隣のマフラーを手に取ると、気に入った色だったので、そのままレジに向かった。 <終>
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