小さなマフラー

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スーパーで買い物をして会計を済ませた私は、購入した食料品を袋に詰めながら、私の横で購入したばかりのお菓子を小さな手で嬉しそうに握りしめている三歳になったばかりの娘に話しかけた。 「もう少し待っててね、今日はハンバーグだよ」 嬉しそうに笑う娘だったけれど食料品を全部袋に詰めて、さあ、お家に帰ろうか、と声を掛けた次の瞬間には私の横にいたはず娘の姿が忽然と姿を消していた。 私は青ざめて大声で娘の名前を呼んだけれど、返事は無かった。周りを見渡しても娘の姿は無くて、スーパーの隅にガチャガチャが何台か置かれているスペースがあり時々買ってあげていたので、そこに行ったのかもしれないと私は走ったけれど、そこにも娘の姿は無かった。私の心臓はドクドクと波打ち、不安で倒れそうになりながら、必死でスーパーのサービスコーナーへ向かい店員に事情を説明した。 「娘が、娘が迷子になりました!呼び出して貰えませんか!」 名前と年齢、着ていた服の特徴を告げて、私はそんなには広くないスーパーの隅から隅まで走り回った。けれど店内に娘の姿は無く、床に娘が巻いていた白い小さなマフラーが落ちていた。私はそのマフラーを握りしめて、店の前の駐輪場に行き、娘がいます様に、います様に…と泣きそうになりながら私が止めた自転車の所へ向かった。けれど…そこにも娘の姿は無かった。 まず一番に私の頭に浮かんだのは、誘拐の二文字だった。恐怖で足がすくんだ。そこへ私を追いかけてスーパーの店員が駐輪場に走って来た。 「お母さん!娘さん、女の人と店から出て行ったみたいです!見ていた人がいました!」 「女の人って、どんな、どんな人ですか!」 「若い女の人だったみたいです。警察に連絡しましょうか?」 若い女…咄嗟にあの人の顔が頭を過ぎった。知り合いかもしれないので、と店員に説明をして私は出入り口に設置されている防犯カメラを見せて貰う事にした。そこに写っていた娘とスーパーから出て行ったのはやはりあの人だった。私はスーパーの店員に、やっぱり知り合いが連れて帰ってくれたみたいです。お騒がせしましたと謝罪をしてスーパーを後にし、すぐに携帯から夫に電話した。 「あの人が…あの人が…」 「落ち着いて、本当にあいつなのか?」 私がスーパーの防犯カメラで確認した事を夫に告げると、夫はすぐにあいつに連絡するから家で待っていろと言って電話を切った。家にたどり着いた私は放心状態だった。スーパーで購入した食料品も持って帰らずに、手には娘が巻いていた私が編んだ白い小さなマフラーを握りしめていた。メリヤス編みの簡単なマフラーだけれど、娘のお気に入りだったその白い小さなマフラーを握りしめて私の瞳からはポロポロと涙が溢れ出して来た。 「やっぱりあいつが連れ出したそうだ」 夫からの連絡に、私の心は安堵感と罪悪感が入り混じった複雑な気持ちだった。 「やっぱり、この間の誕生日に会わせてあげなかったのがいけなかったのよ、誕生日には会わせるって約束だったのに」 「産んですぐに赤ん坊だった娘を家に残して、不倫相手と出て行った女だぞ!そんな女にどうして会わせなきゃいけないんだ…どうして…」 「だって…ママだから。あの子のママだから…」 私の三歳の娘は私が産んだ子供ではない。夫の連れ子だ。夫は前妻が残して出て行った娘の事を私と再婚する半年前まで一人で育てて来た。夫の両親は近くに住んでいないのであまり頼る事が出来なかったので、その苦労は相当なものだったと感じる。そんな夫の前妻から、娘の親権を取り戻したいという内容の訴状が家庭裁判所から届いたのは三か月前の事だ。夫は激怒したけれど家庭裁判所の勧めで年に一度、誕生日だけ会わせるという事で和解になったのだけれど、夫は先日の娘の三歳の誕生日に前妻に娘を会わせなかった。 仕事から帰った夫は疲れ果てていた。 「今日は預かりたいって」 「…そう」 「心配させて本当に悪かったな。身勝手な女だから…」 「謝らないで、私あの人の気持ちも分かるから」 夫は四十歳で、夫の前妻は十三も歳が離れた二十七歳だ。娘を産んだのはまだ二十四歳の時だったから、母親になるにはまだきっと早すぎたのかもしれない。私はもうすぐ四十歳になる。自分の子供が持てる可能性は低いのかもしれない。だからこそ夫の前妻の子供である娘の事をとても愛しく思えるのだろうし、自分が産んだ子供に会いたくない親などきっといないだろうと思える。私が同じ立場なら多分同じ気持ちになるはずだ。身勝手かもしれないが、例えそれが自分の過ちで一度は置き去りにした子供だったとしても… 次の日の早朝に、娘を抱っこした夫の前妻がやって来た。 「朝早くにごめんなさい。この子がママ、ママ、ってあんまり泣くものだから…そして勝手に連れ出して本当にすいませんでした」 そう泣きながら謝る夫の前妻に抱っこされて、夫の前妻と良く似た同じ顔をして泣いている娘の首元には、手編みの小さな可愛いピンクのマフラーが巻かれていた。
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