白い手編みのマフラー

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私の隣の部屋のドアノブには、いつも誰かが巻いた白い手編みのマフラーがある。 二年ほど前、私は不動産屋で見つけた二階建てのアパートに引っ越した。 築10年ほどで、部屋は1DK。 一人暮らしには十分な広さ。 駅からも徒歩10分ほどで、家賃も相場より安かった。 私の部屋は201号室。 二階の一番奥の部屋だった。 引っ越しの当日、私は貴重品だけを持って新居となるアパートにやって来た。 アパートの前には引っ越し屋のトラックが止まり、数名のスタッフが前のアパートの家具や荷物を運び入れていた。 私も追って階段を上り二階につくと、廊下の先で白っぽい帯のようなものが風に揺れているのが見えた。 ちょうど私が入居する隣の部屋のドアノブあたり。 その前を通りかかると、そこには網目が不揃いな手編みらしきマフラーが巻かれていた。 元々白い毛糸だったのが、粗末に扱われ、砂ぼこりや何かで汚れてしまったような色になっていた。 けれど、その時は隣人の落とし物程度にしか思っていなかった。 その日は、運ばれてきた段ボールを荷解きしたり片付けをしたりで、あっという間に夜が更けた。 翌朝、仕事に出掛けようと外に出ると、隣のドアノブには汚れた手編みのマフラーが巻き付いていた。 隣人は留守なのかな。 それとも気づいていないのかしら。 知らせてあげようかと思ったが、電車の時間も迫っていたのでそのまま通り過ぎた。 帰る頃には、さすがになくなっているだろうと思っていた。 仕事は忙しなく、あっという間に退社時間が来た。 同僚の仕事を少し手伝い、そのお礼にと食事をご馳走になった。 私はすっかりマフラーの事など忘れていた。 ほろ酔い気分でアパートに戻ると、汚れたマフラーがまだそのまま残っていた。 ふと窓を見ると、部屋の電気がついているようで明るかった。 まだ時間も遅くなかったし、私は挨拶も兼ねてインターホンを押した。 数分待っても、隣人は出て来ない。 念のため、もう一度鳴らしてみた。 すると、すりガラスの向こうに人影が見え、ドアがゆっくりと音を立てて開いた。 「こんばんは」 私から挨拶をした。 けれど、ドアにはチェーンが掛けているようで、そのわずかな隙間からは隣人の顔の半分ほどしか見えなかった。 かなり疑り深い人だなと感じた。 そこから顔を出したのは、20代ぐらいの若い男性だった。 疲れた様子で、目の下にはクマを作っていた。 「何?」 消え入りそうな声で隣人は言った。 「隣の201号室に引っ越してきた、三上といいます。よろしくお願いします」 そう言うと、隣人は小さく会釈をして「どうも」と答えた。 そして、ドアノブに巻かれた汚れたマフラーの事を伝えると、隣人は嫌そうな顔をした。 「わかってるよ」 「このマフラー、手編みですよね?」 「知らないよ」 「え、あなたのじゃないの?」 「違う。悪いけど、あんた捨てておいて」 隣人はそう言うと、ドアを閉めようとした。 私には手編みのマフラーを捨てることなんて出来ない。 一度作ったことがあるが、時間もかかるし大変だった。 丹精込めて作った手編みのマフラーを、例え不格好でも捨ててなんて信じられなかった。 私は怒りがこみあげ、ドアノブの汚れたマフラーを取って隣人に押し付けた。 「嫌です!」 ドアの隙間で汚れたマフラーを見ている隣人をよそに、私は自分の部屋に戻った。 最悪な隣人だと思った。 翌日、アパートのゴミ捨て場には手編みの汚れたマフラーが捨てられていた。 私は呆れるばかりだったが、どうしようもなかった。 贈り主を不憫に思うばかりだった。 その二日後。 朝、仕事に出掛けようと部屋を出た時、視界の隅で何かが風に揺れているのが見えた。 横を向くと、隣の部屋のドアノブにまたあの手編みの汚れたマフラーが巻き付いていた。 え、どういうこと? 確かにゴミ捨て場で捨てられているのを見かけた。 それがまたドアノブに巻き付いている。 しかも前よりもさらに汚れ、すでに灰色と化している。 ガチャっと音を立てて、隣の部屋のドアが開いた。 ドアノブの汚れたマフラーを見て、隣人はギョッとした顔をした。 私と目が合うと、隣人は汚れたマフラーを無理やり剥ぎ取ってドアを閉めた。 隣人の顔色はさらに悪化し、やつれているようだった。 翌朝、またアパートのゴミ捨て場でそれを見かけた。 しかし、その数日後、また手編みのマフラーは隣人の部屋のドアノブに巻き付いている。 さらに酷く汚れていた。 ところどころ破れて穴が開き、白だった毛糸は赤黒く汚れていた。 さすがに気味が悪くなり、私はそのマフラーを避けて部屋に帰った。 隣人は出かけているのか、部屋は真っ暗で物音もしなかった。 一体、誰がこんなことをしているのか。 気になりはしたが、私は関わりたくはなかった。 関わってはいけない気がした。 翌朝、汚れたマフラーはなくなっていた。 その夜、アパートの脇にある駐車場で隣人を見かけた。 隣人は何かを燃やしているようで、足元にはオレンジ色の火が揺らめいていた。 私に気づいたのか、隣人がこちらの方を向いた。 無表情のまま、こちらをじっと見ている。 気味が悪くて、私は急いでアパートに帰った。 きっと、あのマフラーを燃やしたんだと私は思った。 その二日後。 買い物に出かけていた私は、大きな袋を持ってアパートに帰って来た。 何となく、嫌な予感がした。 階段を上ると、廊下の先に風に揺られる帯が見えた。 自分の部屋が近づくにつれ、それが何なのかがわかる。 同時に、今度は焦げ臭いにおいが鼻を突いた。 また、ドアノブにあのマフラーが巻き付いていた。 真っ黒でボロボロで燃えた後があった。 そのボロボロなマフラーを見て怖くなった。 私は隣人のことが心配になりインターホンを押した。 けれど、何度押しても隣人は出て来ず、部屋にいる気配もなかった。 夜になっても、隣人は帰って来なかった。 ドアノブに巻かれたボロボロのマフラーが風に揺れていた。 翌日もボロボロのマフラーはそのまま。 隣人は帰って来ない。 それがしばらく続いたある日、ドアノブにあったボロボロのマフラーが消えた。 同時に、隣の部屋には大家さんと警察官が訪れた。 隣人が近くの空き地で首を吊って死んでいるのが発見されたという。 親族がいなかったのか隣の部屋にはすぐに業者が来て、部屋はあっという間に空っぽになった。 隣人がいなくなったと同時に、あの手編みのマフラーも見かけなくなった。 数か月後、隣にまた若い男性が引っ越してきた。 挨拶にやって来た隣人は明るく好青年な大学生で、初めて一人暮らしをするのだと希望に満ちていた。 この隣人となら仲良くできそうだと安堵した。 それから廊下で出会っても、隣人はニッコリ笑って先に挨拶をしてくれる。 私もニッコリと挨拶を返す。 友人にもらったと、ケーキを分けてくれた。 私もお返しにと、手作りの料理をお裾分けした。 お隣同士、良好な関係を築いていた。 そんなある日、仕事から帰って来た私は、廊下で立ち尽くしている隣人を見かけた。 「こんばんは」 と挨拶をしながら近づくと、隣人の部屋のドアノブに真っ白な手編みのマフラーが巻き付いていた。 私はそれを見た瞬間、息を飲んだ。 「これ、何ですかね」 隣人が聞いてきた。 「恋人から?」 私は知らないふりをしてそう尋ねた。 隣人は首を横に振り、恋人はいないと言った。 「捨てる?」 そう聞くと、隣人は困った様子で、 「これって手編みですよね。捨てちゃっていいのかな」 と言った。 かといって、誰の物かもわからないマフラーを使う訳にもいかず、私は大家さんに預けてみてはと提案した。 「それがいいですね」 隣人は少し微笑んで白いマフラーを取ると、私に挨拶をして部屋の中に入っていった。 あのマフラー、手編みで編み方も前のと同じだけれど、あれほど真っ白な状態のマフラーを見たのは初めてだった。 だから、隣人のことが好きな女の子が、こっそりと置いて行ったのでは、とも内心思った。 翌日、廊下で隣人と出会うと、相変わらず爽やかな笑顔で、これからバイトなのだと言い、 白いマフラーは大家さんのところに持っていったそうだ。 私は頑張ってと隣人を見送ったが、内心胸の奥はざわついていた。 二日後、部屋の前で顔を強張らせながら立っている隣人がいた。 ドアノブには、またあの白い手編みのマフラーが巻かれていた。 私に気づいた隣人は咄嗟に笑顔を作り、挨拶をした。 隣人の笑顔は引きつっていた。 「一体、誰がこんないたずらを」 隣人はその白いマフラーをはぎ取った。 「それ、どうするの?」 「やっぱり捨てます」 「あなたの知り合いがプレゼントしてきたのかも」 「手編みのマフラーをもらうような間柄の友人はいません。それにプレゼントなら、こんなドアノブなんかに巻き付けますか?」 その通りだ。 隣人はマフラーをはぎ取ると、すごすごと部屋の中に入っていってしまった。 それにしても、誰の仕業なのだろう。 前の隣人の知り合いなのか、それとももっと前から……。 私には知る由もない。 それからも、白い手編みのマフラーは隣人の部屋のドアノブに巻きつけられた。 何度も剥ぎ取り、処分しても、戻って来た。 ある時、隣人から私が疑われた。 隣人が言うには、夜中に目を覚ましトイレに行こうとした時、ドアノブがわずかに動く音がして不審に思い様子を伺っていると、キッチンのすりガラスの向こうに髪の長い女性らしき人影が右に歩いていくのが見えたそうだ。 そして、ドアを開けてみると、ドアノブには白い手編みのマフラーが巻かれていた。 隣人の右隣の部屋は私。 けれど、当然私には心当たりがない。 隣人の顔は怒りと苛立ちで強張っていた。 私ではないと言っても信じてはくれず、前の住人の時から同じ事が起こっていたと伝えると、私への疑いが少しだけ晴れた。 その時の隣人の目には、かつての希望に満ちた輝きはなくなっていた。 前の隣人のようにひどく疲れた様子だった。 それからは、隣人と顔を会わせても挨拶さえしてくれなくなった。 けれど、あの手編みのマフラーは何度処分しても戻って来ているようだった。 そのたびに、毛糸は赤黒く汚れ、編み目は裂け、ボロボロに劣化していく。 ついに隣人は失踪してしまった。 部屋の中には置手紙があり、「もう耐えられない」と書かれていたらしい。 そして、また私の隣の部屋は空き部屋となった。 空き部屋になると、ドアノブの手編みのマフラーも消えてなくなる。 けれど、またすぐに誰かが引っ越してくる。 決まって若い男性。 気さくな人、爽やかな人、真面目な人、大人しい人。 色んな男性が引っ越して来た。 すると、またドアノブに白い手編みのマフラーが巻き付けられるようになる。 私はその犯人を一度も見たことがない。 でも、確実に誰かが巻いている。 そして、それは少しずつ痛み、朽ちて行く。 隣人の心も同じようになる。 薄い壁の向こうで、誰かは怒り、誰かは苛立ち、誰かは発狂し、誰かは泣いていた。 みんな半年も経たないうちにいなくなる。 引っ越して行くか、失踪するか、自殺をするかのどれか。 その時のマフラーは、いつもボロボロで小汚くて、嫌なニオイもした。 そんな曰く付きの部屋が隣だけれど、私は未だにそのアパートで暮らしている。 家賃も安い、駅から近いから。 隣のドアノブに白い手編みのマフラーが現れるたび、ほんの少しずつ家賃が安くなる。 こんなラッキーなことはない。 だって、異変が起こるのは隣の部屋で、私の部屋ではないから。 隣人には同情するし、最初のうちは隣から聞こえる罵声や悲鳴に戸惑っていたけれど、もう慣れたから平気なの。
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