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それはそれ
牧田と二村が仲良くなるまで
二村視点/物語開始の1年前くらいの話
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下の名前が嫌いだった。かわいい名前、と言われるたびに微妙な気持ちになった。成長して外見から幼さが抜けると、今度は「見かけによらず」という枕詞が追加されるようになった。微妙な気持ちが、嫌悪感に変わった。
それでも、実家に帰ると呼ばれるのは下の名前だ。俺の名前は一族の長である大婆様が付けた。顔を合わせるたび、「菖蒲の花言葉は、優しさ、良い便り、あなたを大事にします、ですよ」と傷の増えた手を撫でるものだから、大婆様は少し苦手だった。
花言葉が苦手になったのは、大婆様のこの言葉が原因だったか。思い出そうとしてもイマイチピンとくる記憶はない。我が家は茶華道に精通しており、花言葉に触れる機会は残念なことにありふれていた。名前のこともあって、中学に入ると俺は華道の稽古をよくサボるようになったが、お家柄飛び交う話はもっぱら茶華道についてだ。つまらない、と反発して髪を白っぽい灰色に染めてやった。久々に会った大婆様は、目をぱちくりさせて「白花色になりましたね」と言った。日本の伝統色で言わないでほしい。トドメには「白い菖蒲になりましたね。綺麗ですよ」ときたものだ。本当に敵わない。
髪を染めてからは、よく不良に絡まれるようになった。元々目つきが悪いのもあってか、その手の人間にしか見えないらしい。大婆様のように「綺麗」と言う人は極々稀だということだ。一番肝心な相手に柄が悪く見えていないのだから、なんとも皮肉な話である。中三に上がっても、生活に何ら変化はなかった。時折思い出したかのように自室で茶を点てるのも、全く同じ。そんな自分に眉を顰め、茶を一気飲みしては苦さに顔を顰めるまで、何もかも。
変化が訪れたのは、高校に上がってからだ。隣の席になった男は、飄々としてつかみどころのないやつだった。髪が長くて、弱そう。元はAクラスだというこのお坊ちゃんが早々に俺を負かし、Fクラスのトップに座り込んだ時、周囲の認識は改められることになった。
「いってぇ」
「菖ちゃん、ナイスファイトだったよ~」
からかうような調子で言われ、顔を顰める。圧倒的な強さを持つ癖になかなかに白々しい。
「で。見事トップに収まった訳だがお前どうしてぇんだよ」
仰向けに寝転がりながら何気なく問う。意外そうな顔をした牧田に、なんだろうと口を引き結んだ。
「トップとられたのに、案外平気そうだねぃ」
「……なりたかった訳じゃねぇから」
元はと言えば大婆様への反発心が変な方向に作用しただけだ。こいつがなぜトップを狙ったかは知らないが。聞いてみれば、「こっちを見てほしかっただけ」と睦言のような戯言を抜かされた。何だこいつ。
脱力し、部屋に帰ろうと立ち上がる。帰るの? と尋ねる牧田に浅く頷けば、「じゃあ俺も」と返された。勝手に帰ればいいのに、変なやつだ。
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「テメェ、なんで付いてくンだよ」
「あ。ダーリン知らない感じ? 俺たち同じ部屋なんだよねぃ」
マジか。
……ああ、言われてみればそんな通知が来ていたような気が、しなくもない、ような。
仕方なく同じ部屋に帰ると、牧田は図々しく夕食を要求してくる。
「学内のスーパーにでも行けよ。弁当売ってンだろ」
「だってぇー。キッチンに色んなものがあるから料理できるのかなって思ってぇ」
茶筅や抹茶々碗、茶杓、茶こしのことだろうか。俺ができるのは茶を点てることくらいで、料理なんてできやしない。米を炊くくらいはできるだろうが。それを素直に申告するのもなんだか癪で、俺は溜息を一つ吐いてからキッチンへと入った。リビングで「晩ごはん~」と歌う牧田は無視だ。
茶杓二杯分の抹茶を缶から取り出し、茶こしにかける。抹茶々碗に緑が彩られたのを確認し、ミネラルウォーターを火にかける。少し待ち、沸騰した水を湯冷ましに一、二度移し温度を下げる。夕食が出ると思っているやつの間抜け顔を見たいだけだが、手を抜くのはプライドが許さない。染みついた癖というものだ。厄介な。
中央に泡の盛りあがった抹茶をしれっと差し出すと、牧田は少し驚いた顔をした。俺の顔を見て、それから抹茶を見つめる。ふわ、と笑うと、両手で椀を取った。すっと頭を下げると、時計回りに二度椀を回す。椀に口を付ける一連の動作が不慣れながらに丁寧で。やはり俺も二村の人間なのだ。茶を点て、それを尊ばれることがこんなに嬉しい。飲み切った牧田は、椀を指で拭い、反時計回りに二度回す。結構なお手前で、と頭を下げた牧田は、「なるほどね」と独り言ちた。
「菖ちゃんは、かっこいいんだ」
「はぁぁ?」
「優しいし、かっこいい。すごくピッタリな名前だ」
「は、も、意味わかんね」
茶碗を受け取るのも忘れ、膝上に顔を埋め丸くなる。
下の名前が苦手だった。顔に似合わずと言われるのがなお嫌だった。言われるたびに、大婆様に申し訳ないと、そう思った。不出来な人間だと諦めてほしかった。大婆様は、厳しい人だ。髪を染め、Fへと落ちた俺を白菖蒲と呼ぶ。何度落ちぶれても、俺を決して諦めてはくれない。
優しくありなさい。
人を大事になさい。
そんな花言葉に、似合う人間になりたかった。なんて酷い名前を付けたんだ。中々相応しい人間になんてなれやしない。ああ、最悪だ。
「……もうやめろよ、朱満」
「いや、俺の名前は呼ばないで」
ホントにもう、最悪だ。
新しくFに来た男は、本当に意味の分からないやつだった。
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