それはそれ

1/1
前へ
/34ページ
次へ

それはそれ

牧田と二村が仲良くなるまで 二村視点/物語開始の1年前くらいの話 -------------------------------------------------  下の名前が嫌いだった。かわいい名前、と言われるたびに微妙な気持ちになった。成長して外見から幼さが抜けると、今度は「見かけによらず」という枕詞が追加されるようになった。微妙な気持ちが、嫌悪感に変わった。  それでも、実家に帰ると呼ばれるのは下の名前だ。俺の名前は一族の長である大婆様が付けた。顔を合わせるたび、「菖蒲の花言葉は、優しさ、良い便り、あなたを大事にします、ですよ」と傷の増えた手を撫でるものだから、大婆様は少し苦手だった。  花言葉が苦手になったのは、大婆様のこの言葉が原因だったか。思い出そうとしてもイマイチピンとくる記憶はない。我が家は茶華道に精通しており、花言葉に触れる機会は残念なことにありふれていた。名前のこともあって、中学に入ると俺は華道の稽古をよくサボるようになったが、お家柄飛び交う話はもっぱら茶華道についてだ。つまらない、と反発して髪を白っぽい灰色に染めてやった。久々に会った大婆様は、目をぱちくりさせて「白花色になりましたね」と言った。日本の伝統色で言わないでほしい。トドメには「白い菖蒲になりましたね。綺麗ですよ」ときたものだ。本当に敵わない。  髪を染めてからは、よく不良に絡まれるようになった。元々目つきが悪いのもあってか、その手の人間にしか見えないらしい。大婆様のように「綺麗」と言う人は極々稀だということだ。一番肝心な相手に柄が悪く見えていないのだから、なんとも皮肉な話である。中三に上がっても、生活に何ら変化はなかった。時折思い出したかのように自室で茶を点てるのも、全く同じ。そんな自分に眉を顰め、茶を一気飲みしては苦さに顔を顰めるまで、何もかも。  変化が訪れたのは、高校に上がってからだ。隣の席になった男は、飄々としてつかみどころのないやつだった。髪が長くて、弱そう。元はAクラスだというこのお坊ちゃんが早々に俺を負かし、Fクラスのトップに座り込んだ時、周囲の認識は改められることになった。 「いってぇ」 「菖ちゃん、ナイスファイトだったよ~」  からかうような調子で言われ、顔を顰める。圧倒的な強さを持つ癖になかなかに白々しい。 「で。見事トップに収まった訳だがお前どうしてぇんだよ」  仰向けに寝転がりながら何気なく問う。意外そうな顔をした牧田に、なんだろうと口を引き結んだ。 「トップとられたのに、案外平気そうだねぃ」 「……なりたかった訳じゃねぇから」  元はと言えば大婆様への反発心が変な方向に作用しただけだ。こいつがなぜトップを狙ったかは知らないが。聞いてみれば、「こっちを見てほしかっただけ」と睦言のような戯言を抜かされた。何だこいつ。  脱力し、部屋に帰ろうと立ち上がる。帰るの? と尋ねる牧田に浅く頷けば、「じゃあ俺も」と返された。勝手に帰ればいいのに、変なやつだ。 ■ 「テメェ、なんで付いてくンだよ」 「あ。ダーリン知らない感じ? 俺たち同じ部屋なんだよねぃ」  マジか。  ……ああ、言われてみればそんな通知が来ていたような気が、しなくもない、ような。  仕方なく同じ部屋に帰ると、牧田は図々しく夕食を要求してくる。 「学内のスーパーにでも行けよ。弁当売ってンだろ」 「だってぇー。キッチンに色んなものがあるから料理できるのかなって思ってぇ」  茶筅や抹茶々碗、茶杓、茶こしのことだろうか。俺ができるのは茶を点てることくらいで、料理なんてできやしない。米を炊くくらいはできるだろうが。それを素直に申告するのもなんだか癪で、俺は溜息を一つ吐いてからキッチンへと入った。リビングで「晩ごはん~」と歌う牧田は無視だ。  茶杓二杯分の抹茶を缶から取り出し、茶こしにかける。抹茶々碗に緑が彩られたのを確認し、ミネラルウォーターを火にかける。少し待ち、沸騰した水を湯冷ましに一、二度移し温度を下げる。夕食が出ると思っているやつの間抜け顔を見たいだけだが、手を抜くのはプライドが許さない。染みついた癖というものだ。厄介な。  中央に泡の盛りあがった抹茶をしれっと差し出すと、牧田は少し驚いた顔をした。俺の顔を見て、それから抹茶を見つめる。ふわ、と笑うと、両手で椀を取った。すっと頭を下げると、時計回りに二度椀を回す。椀に口を付ける一連の動作が不慣れながらに丁寧で。やはり俺も二村の人間なのだ。茶を点て、それを尊ばれることがこんなに嬉しい。飲み切った牧田は、椀を指で拭い、反時計回りに二度回す。結構なお手前で、と頭を下げた牧田は、「なるほどね」と独り言ちた。 「菖ちゃんは、かっこいいんだ」 「はぁぁ?」 「優しいし、かっこいい。すごくピッタリな名前だ」 「は、も、意味わかんね」  茶碗を受け取るのも忘れ、膝上に顔を埋め丸くなる。  下の名前が苦手だった。顔に似合わずと言われるのがなお嫌だった。言われるたびに、大婆様に申し訳ないと、そう思った。不出来な人間だと諦めてほしかった。大婆様は、厳しい人だ。髪を染め、Fへと落ちた俺を白菖蒲と呼ぶ。何度落ちぶれても、俺を決して諦めてはくれない。  優しくありなさい。  人を大事になさい。  そんな花言葉に、似合う人間になりたかった。なんて酷い名前を付けたんだ。中々相応しい人間になんてなれやしない。ああ、最悪だ。 「……もうやめろよ、朱満」 「いや、俺の名前は呼ばないで」  ホントにもう、最悪だ。  新しくFに来た男は、本当に意味の分からないやつだった。
/34ページ

最初のコメントを投稿しよう!

190人が本棚に入れています
本棚に追加