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愛のレシピは
橙の告白後
2020年のバレンタインif
***
トントントンとまな板の上のチョコレートを刻む。ちらりと隣を見ると、俺と同じように包丁を手にした橙がにこりと笑う。何とも言えない気持ちになり、目を逸らす。逆隣を見れば興奮した様子の長谷川が猛スピードでチョコレートを刻んでいる。見なきゃ良かった。
「どうしたのゆかりん! そんなぼんやり手を動かしちゃダメだよ!」
「お、おー。そうだな、危ないよな」
「うん! それにこういうのは愛しの彼のことを考えてやらなきゃでしょ! は~ッ、テンション上がる!」
愛しの彼ぇ?
無遠慮な声を上げかけて口を噤む。長谷川の中でどんな妄想が展開されているのかは分からないが、知らない方が精神衛生上優しいのは間違いない。
本日は二月十三日。バレンタイン前日。
そもそも、俺がチョコを刻んでいるのは、橙が原因だ。バレンタインに向けてチョコを作りたいから手順を教えてくれと頼まれたのだ。好意に気付いていると打ち明けた俺にわざわざ頼むあたり微妙に意地が悪いと思う。これで俺もColoredのメンバーには甘いから頼まれれば聞いてしまうのだが。
俺がチョコを作ると聞きつけた長谷川(と、巻き込まれたらしい三浦)と共に俺の寮の台所でチョコを作っている、という訳だ。
「この後湯煎にかけるから出来るだけ細かく刻めよ。こう、喧嘩しかけてきたやつの足をすり潰す要領で」
「椎名ってそういえば不良だったな……」
「チョコ作ってんのにね! 不良なんだよね! やだどうなってんの萌える」
「包丁持ったまま興奮するな。怪我するぞ」
「やんっ。隙あらば誑(たら)そうとしてくる! そんなゆかりんがスッキ!」
……無視。
風紀内ではもはや公然の秘密扱いになっている事実にこうも興奮されるとすごく微妙な気持ちになる。怖がられるよりはマシかもしれないが、このリアクションを求めているかというと頷きがたい。
「愛してる愛してる愛してる愛してる……」
「橙、呪詛を刻むなチョコを刻め」
「やだな赤。愛だよ」
包丁を動かしながら息継ぎの間もなく呟き続ける橙。怨念めいたものを感じ思わず止める。
「……くれぐれも変な物混ぜたりするなよ」
髪とか爪とか。
「そんなに変な物入れそう?」
割と。
苦笑して誤魔化す俺に、橙は困り顔で笑う。そこは否定するところだよ、と呆れた声に指摘されるが、そう見えてしまうものをすぐさま否定するのは案外難しいものである。
「そもそも、なんで髪や爪を混ぜるのさ」
「自分の一部を相手に取り込んで欲しいっていう発想じゃないかな~。残念ながらそこに俺の萌えはないけど」
ふぅんと気のない返事をする橙。
「気持ちは分かるけど、目指す方向性が違うみたいだね」
「方向性?」
分かるのかよと思いつつ尋ねかえすと橙はこくり、頷く。
「うん。俺は赤の今まで食べたチョコの記憶を塗り替えるのを目指してるから」
「それはまた……。期待しとくよ」
もはや誰にあげるか隠してもくれない。大体分かっていたがリアクションに困るからもう少しお手柔らかに……はならないですね、知ってた。
ちなみに俺はチョコは弄くり回さない方がおいしいと思っているので、実のところバレンタインの手作りチョコは非推奨派だ。橙が張り切っているので言うつもりはないが。というか講師が俺なのだ。うまくできても材料の味しかしないと思う。頼まれたから作り方を勉強したけど、素人には変わりないし。無論これも言うつもりはない。
「見てて赤。立派なショコラティエになってみせるから」
お前のゴールはそれでいいのか?
やぶ蛇になりかねないから敢えて突っ込まないが、お前のゴールはショコラティエなのか。長年人のアピールにスルーを続けるとこうも拗れてしまうのか。未だかつてない罪悪感を感じる。
もう少しリアクションを返してれば、と後悔しかけて気付く。いや、そういやこいつ出会った当初から拗らせてたな。Coloredに入りたいなら金髪にしてこいとほざいた不良相手に、本当に染髪して登場するなんて拗らせている以外に何と表現すればいいのだ。
橙に視線を送ると、にっこりと微笑み返される。うん、お前はもうそのままでいいよ。
「じゃ、刻んだチョコをこのボールに入れて。まな板の上にキッチンペーパーを敷いてるから、それを持って中を移すんだ」
「なんでキッチンペーパー?」
こてんと首を傾げる長谷川に、「手で移すと体温でチョコが溶けるからな」と答える。なんだかんだ熱心だ。ついでに、と湯煎のコツを伝える。
「湯煎の温度は50~55度だ。沸騰したお湯じゃ風味が飛ぶし、チョコがモロモロになる」
「ゆかりん普段からお菓子作ってんの? 手慣れてんね」
「いや、」
反射で否定し、しまったと眉を顰める。案の定、隣でチョコを移していた橙は嬉しそうに口元を緩めている。
「わざわざ調べてくれたの?」
「……調べてねーよ」
にこにことゴムべらを握る橙に、取りあえず否定する。人のために密かに働いた時、それが露呈すると小っ恥ずかしいものがある。視線を逸らし部屋のエアコンを付ける。設定温度は25度だ。温かくしないと湯煎中にチョコが固まってしまうから、というのがその理由だ。
ボールをこっちのボールに入れろと手元の銀を指さす。橙は良い返事をし、ご機嫌にボールを重ねる。
「……混ぜる時は慎重に、だ。チョコの中にお湯が混じると分離やムラの原因になる。死にゃあしないが、ここでしくじると材料食べた方が正直美味い」
「りょーかい」
チョコレートは油分が含まれてるからな、と補足すると橙は生真面目に頷きながらチョコレートをかき混ぜる。甘い香りがキッチンに広がる。
「うう~ん! 楽しい! この恋してる感じの匂いッ! バレンタイン当日の幻覚まで見えてきた!」
「はーい冬馬ちゃんお薬の時間ですよー」
「やだ春樹くんったら! 俺は正常ですよ!」
ぷんすこ! と怒った素振りを見せる長谷川の代わりに三浦はせっせとチョコを溶かす。面倒がっていた割に手際が良い。
「滑らかになったか?」
「うん」
チョコレートに温度計を突っ込む。ぴったり40度を示した温度計に指示を出す。
「こっちのボールにチョコの入ったボールを移せ」
「……水?」
「そう。大体こっちは大体15度だ。まずはチョコレートの温度を下げる。ま、30度ってとこだな」
チョコの温度が下がったことを確認し、ココアパウダーを混ぜる。
「なんでココア?」
「これから型に流すだろ? ココアを混ぜると型から抜くときに外れやすくなるんだ。大体分量はチョコの重量の3パーセントってとこだな」
ココアの粉っぽさがチョコから消えたのを確認した俺は、橙からゴムべらを譲りうけかき混ぜる。要領としてはチョコをボールの底から剥がすように、だ。右回り、左回り各二十回ずつが望ましい。
「じゃ、チョコが30度保ってる内に型に入れるぞ」
製氷器にチョコを流し込む。
「ナッツを用意したから、入れるのもありだと思う。入れるだけで結構見栄えするし」
見た目を良くするならアラザンが主流だが、あれ自体はそこまでおいしくないと思う。いつもはアラザンを使っていたのか、長谷川がああと感心した声を出した。
「なるほどね~! あっそうだ! ゆかりんが使う用のチョコレート型は俺の方で用意したからこれ使って!」
なんだ俺用って。
差し出された箱を開けると、現れましたはハート型。掌より少し大きい位のハートにうわぁと顔を顰める。さっきから思っていたが、長谷川の中で俺はどういう設定になってるんだろう。
突っ込むことが恐ろしく、渡された型にチョコレートを流し込む。なんで長谷川と橙はそんな顔してるんだ。ええいやめろ目を輝かせるな!
気になる視線を頑張ってスルーし、型を冷蔵庫に入れる。一時間も冷やせば固まるだろう。作業も終わったことだし一旦休憩しようか、とくつろぎはじめる。片付けもしたいからと用意したビスケットを取り出す。
「ボールに付いてるチョコを付けたら美味しいかと思うんだが」
ボールも綺麗になるし。
俺の提案に退屈そうな顔をしていた三浦が表情を明るくする。ふむ。甘いものだけっていうのもなんだから、紅茶でも淹れようか。
***
初めて作った割になかなか上手いんじゃないか。
光沢のあるチョコレートに浅く頷く。
「なんかかんどー! じゃ、あとはラッピングだね!」
「おー、頑張れ」
「な~に言ってんの! ゆかりんもやるんだよ!」
好きな子に渡すって言ってたじゃない! と何キャラか分からないような口調で叱られるが俺はそんなこと言ってない。
が、テンションの振り切れた長谷川はもはやこちらの話を聞いてくれない。うきうきとラッピングのビニールに手を付ける橙と共に、完成したチョコを包みはじめる。三浦は長谷川の扱いを心得ているらしく、何を言うでもなくチョコを包む。なるほど、興奮した長谷川には適度に付き合うのが正解か。
先生よろしく見本を示した三浦を参考に俺もチョコを包もうとする。が、
「でかくて入らんな」
「あ、ゆかりんはこれ使って! ハート型用に箱と緩衝材用意したから」
「おー」
用意周到だ。そこまで乗り気ではないイベントに結果的に全力で乗っているとは、なんとも微妙な気持ちだ。
箱にセットの造花を付け、紐を巻く。
「やった……! これで明日は好きな子に渡せるね!」
渡さねぇけど。
「アタイたち……、頑張ろうね!」
だから何キャラだよ。
***
バレンタイン当日。
放課後の風紀室でゆっくりしていると、授業の終わったらしい橙が入ってくる。今日はやけに遅かったな……と思い気付く。
橙の手には紙袋。昨日作ったチョコを寮まで取ってきたのか。そういや俺もみんなで食べようと思って朝からカバンに突っ込んでたっけと思い出す。
「おー、橙。遅かったな」
「ん。バレンタインだから」
「なんだそりゃ」
橙の圧縮言語に青は首を傾げる。青のリアクションを意に介さず、橙は俺ににこやかに歩み寄った。
「はいっ、赤! 受け取って」
「……、ありがとう」
貰ったチョコを一つ口に含む。おいしい、と呟くと橙は顔を綻ばせる。些細な言葉一つでここまで喜ばれるのは少し気恥ずかしい。
「俺のも持ってきたから食べようか」
大きいから皆で。
言うと、橙は怪訝そうに眉を顰めながらこくりと頷く。カバンからチョコレートを取り出し、テーブルに乗せる。興味津々といった素振りで箱の中を覗き込んだ面々は、ぎょっとした顔で絶句した。
「赤ぁ……?」
「ん? どうした」
「ハート、バッキバキなんだけど」
「割ったからな」
でないと分けて食べられないだろう。
答えると複雑そうな顔が返ってくる。
「美味いけどほろ苦い……」
「ミルクチョコだからそんなビターじゃないと思うんだが」
「ああ、うん。味じゃなくてね、心の問題」
なにやら悲しそうにチョコを食べる一同に、やはりハートを砕いたのはまずかったかなぁと考える。
「でも、ハートを渡すのはちょっと、なぁ」
恥ずかしいし。
来年は、と思い考え直す。……いずれ。誰かと付き合ったら、なんて。
「やっぱなし」
不意に浮かんだ思いつきを慌ててかき消す。上がった体温に、パタパタと手で顔を扇いだ。何考えてんだ、恥ずかしい。
「赤? どうした?」
「っ、なんでもないっ!」
俺の奇行に青はきょとりと首を傾げる。まさか気付かれるとは。下がった体温が再び上がる。指先まで熱い。
「来年は、」
青は何かを言いかけて口を噤む。狼狽えた様子を見せた青に、橙はハンッと鼻を鳴らす。橙はぐいと青の前に体を出し、俺の手を握った。
「来年は、俺のためにハート型作ってくれる?」
それって、さぁ……。
全く、油断も隙もありゃしない。
「……橙次第かな」
一先ず、返事は保留で。
苦笑いをして誤魔化す俺に、橙はすっと手を伸ばす。
「予約」
不意に触れられた唇。
呆然とする俺の口に何かが押し込まれる。俺が作ったチョコだろう。口内がふわりと甘さで包まれる。
「甘い」
俺には甘すぎたかな。
そこまで甘さの強いチョコではなかった筈だけど。
思わず顔を顰める。やっぱり、勉強したところで素人出来だ。橙のと同じ材料だったのになぁ。こんなに甘さが変わるものか。
ふと橙と目が合った。
ぶわり。
チョコの甘さが上がった気がした。
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