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青の夢に由さんが迷い込んだ話
ここは。
目を瞬くも景色は変わらない。
「……うぅん」
さっきまで部屋のベッドに入っていたはず。それがどうしてこんなところにいるのだろう。目の前には花のアーチ。それを抜けた先には『はっぴー椎名らんど』と書かれた看板がある。
「……つかはっぴー椎名らんどってなんだ」
アーチの前で佇む俺に、猿がひょこひょこと近付いてくる。猿は人慣れしているのか俺の背にしがみつく。どうしたものか。町中で猿に遭遇した場合、通報先は保健所……だよな。というかそもそもここが町中なのかという疑問はあるが。
「ここどこなんだ……」
「ここはね、赤」
「わ?!」
突如滑らかに話し出した猿にぎょっとする。揺れる背中に「わっ」と声を上げた猿。前に抱き直すと「これはこれで……」と猿は頷く。
「やぁ赤」
「……橙?」
話し方に面影を感じ問いかけると、猿はこくこくとしきりに頷く。
「さすがスイートプリンス赤。この姿でも気付くとはスーパージーニアスだね、ラブ」
「お前話し方おかしくないか」
いや、姿形もおかしいけどさ。
指摘するとまたも橙はこくりと頷く。
「ここは青の夢の中だからね。青の多大なる偏見と俺に対する悪意が反映されてる形だね、ラブ」
「青、お前のこと猿だと思ってんのか……」
青の中の橙ってすごく頭の悪そうな話し方してんだな……。なんだよスーパージーニアスって。あとラブラブうるさい。
内心呆れながら目の前の景色をよく観察する。花のアーチは赤色でまとめられている。看板にも赤いライン。ということは『はっぴー椎名らんど』の椎名とは俺のことなのだろう。
「すっげぇ行きたくねぇ……」
なんだよはっぴー椎名らんど。髪をかき混ぜた俺は、いつの間にか抱えていた猿がいなくなったことに気付く。
「橙……?」
『大丈夫だよスイートプリンス赤』
姿は見えないのにどこからともなく声がする。少なくとも話し方は大丈夫じゃないけど、というツッコミを飲み込む俺に気付かず、橙は話を続ける。
『あれだね、青はスイートプリンス赤に抱かれたのがお気に召さなかったらしいね』
「青、お前のこと嫌いすぎじゃねぇか?」
『大丈夫! 俺も嫌い!』
「……仲良くしろよ」
呆れる俺に橙は『あ、消える』と呟く。橙の声はそれきり聞こえなくなった。ここから先は俺一人ということか。
こんな福祉サービス施設みたいな所を一人で散策するなんてどんな罰ゲームだ。とはいえ、それ以外にここでできることなんてありはしない。諦めた俺は重い足取りでアーチを潜る。
「っ?」
何か声がする。俺以外には何もいない筈だが、と周りを確認すると、アーチにされている赤い花が何やら言葉を呟いている。よくよく見ると花の真ん中にはデフォルメされた犬の顔が付いていた。
「あか~!」
「あか~!」
「きゃわわ」
「こっちむいて~」
楽しそうに花びらを手のようにフリフリする花から、咄嗟に目を逸らす。
なんだあれなんだあれなんだあれ……!! えっ? 青の夢の中の花って話すのか?
こうして目を離している間にさえも「ふぁんさして~」という声が聞こえる。ファンサってなに。いや分かってる、ファンへのサービスのことだよな!? なんで花が?! というか声が青だった。青、犬だった……ッ!!
まだ入り口にも達していないのに先が思いやられる。花に適当に手を振り返すと、きゃ~という嬉しそうな声が聞こえてくる。青、こんな夢ばっか見てんのかな……。
アーチを抜け看板下の扉に辿りつく。横には「何人もこの戸を開けることかなわず」と書かれた紙が貼られている。なんだ。入られないのか。試しに押してみると扉は容易く開いた。というか半分以上自動で開いた。
全開した瞬間、聖歌のような曲がパイプオルガンの音色で奏でられる。花びらは上から降り注ぎ、足下ではころころとレッドカーペットの道ができる。
何人たりともかなわねぇんじゃないのかよ……ッ!!
なんだこのウェルカムムード。寧ろ入れて欲しくなかった。へぇ、開かないんだ~って確認する意味で押したのに。入る気なんてなかったのに。入り口の時点でこんなに恐ろしい事態になっているのだ。このまま歩を進めたらどうなるのかなんて考えるだけでも恐ろしい。とはいえ、レッドカーペットを無視してアーチの元で留まるというのも選択しがたい。はっきり言ってしまえばどこに行こうとあまり楽しい結果にはならないだろうというのが結論である。……一先ずカーペットの途切れるところまで行ってみるか。
「……はぁ」
俺、青の夢から出た後、いつも通り接することができるだろうか。
脳裏を過るのは猿となった橙や手を振る犬顔の花々。
「……うん。無理だな」
これから先どんな良い言葉を言われても、「でもこいつあんな夢見てたんだよな」の一つで地に落ちてしまうだろう。切ない気持ちになりながらカーペットの先を歩くと、黒髪の子供の後ろ姿が見える。こんな危険地帯に一人でいるなんて。
放っておけない気持ちになり、「おい」と声をかける。
「お前、何してるんだ」
「……、俺?」
尋ねるように振り返ったのは中一の頃の俺だった。こうして改めて見ると小学生と紛うほど体が小さい。『俺』は訝しげに俺を見て、首を傾げる。
「あんた……」
何事かを言おうとした『俺』は首を振って言葉を飲み込む。
「合ってるよ」
「は?」
「俺がお前かって聞きたかったんだろ。合ってる」
「なんで、」
「なんでもクソも、俺がお前くらいの時自分から何も聞けない奴だったのを知ってるからだよ」
やりとりが回りくどくてめんどくさい。荒れてた時期の自分と話すとかどんな苦行だ。『俺』の手を取り黙って歩く。困惑している気配を感じるがそんなものは無視だ。俺は子供が苦手だし、第一に自分に対して気を遣う気なんて湧かない。
「おいっ」
「あ?」
「……どこ行くの」
控えめながら問いかけられ、少し感心する。振り返り目を合わすと、びくりと震える。
「知らね。でもお前を置いてく訳にもいかねーだろ。こんな意味の分かんねぇ場所」
「……ふん」
照れたようにそっぽを向く自分に、気怠さが増す。ツンとされても困る。自分の何気ない言葉に当時の自分が喜んでいると分かるだけ、この状況が嫌だ。一番嫌なのは、喜ぶポイントまで分かることだ。この上なく複雑な気分である。こちらの気持ちなどつゆ知らず、『俺』は先程よりも懐いた様子で俺に付いてくる。実際の中一の頃の警戒心はこんなものではなかったと思うが、この世界は恐ろしいほど俺に甘い。恐らく『俺』の性格にもそうしたフィルターがかかっているのだろう。
「未来の俺ってこんな感じなの? 金髪とかヤンキーなのか?」
「うるせぇじゃれるな」
ヤンキーだけども。
適当な扱いを気にする様子もない『俺』に内心呆れる。青にはどれだけ俺が人懐っこく見えたんだか。笑みこそ少ないが気分の上下が目に表れている。チッと舌打ちをすると、びくりと怯える『俺』に反射で謝り歯噛みする。クソ、うぜぇ。
「おいチビ。お前歩くの、それが限界なのか」
「……まだいける」
「いけねぇな。よし、乗れ」
少しかがみ、背に乗せる。手を引くより背中に乗せる方がまだ心安らかだ。見えないし、手を繋ぐよりは気も遣わない。
「……重いだろ」
「軽い」
「気ぃ遣うなよ」
「遣ってねぇから軽いって言ってんだよ」
手を繋ぐよりマシだと思ったのだが、まだ手を繋いでいた方がよかったかもしれない。数年前の自分がこれほど頼りない存在だったなんて直視したくなかった。目を背けているのに、背中に乗った体重は吹けば飛ぶほどささやかで。
「……はぁ」
青、早く夢から覚めねぇかな。
心から願った。
***
「川かぁ」
「泳いで渡るのか、これ……」
暫くカーペットを進むと、大きな川が道を遮るように流れていた。川沿いには花が咲いており、何かを話している。背中のチビと耳を澄ませる。
「メロスはげきどした~」
「しずめたまえ~あれくるうながれを~」
「ざんぶとながれにとびこみ~」
「こころのとうそう~」
青、最近『走れメロス』を読んだだろ。想像力の問題なのか、走れメロスほど川の流れは強くない。とはいえ、川の向こうにカーペットが続いている以上、川を渡るのは必須である。
「渡る、かぁ」
渋々上の服を脱ぐと、チビも俺に倣って上を脱ぐ。
「……その、背中」
驚く声にチビの背中を見ると、何の傷もなくつるりとしている。青が俺の背中を見たのは高校に入ってからだ。青の中で、中一の俺の背に傷のあるイメージはないのだろう。
「……痛いか?」
「別に。たまに引き攣れるくらい」
「俺も、傷ができるのかな」
怯えたように言うチビに、溜息を吐く。
「……できねぇよ。お前はこのお優しい世界に住む椎名由なんだから」
というか、この傷は青と出会ったその日についたものだ。現時点でないのならこれより先できることもないだろう。
「……そっか。なぁ、」
「あ?」
「今度は俺がおぶろうか」
「は……?」
チビの唐突な言葉に目を瞬かせる。こんな、できる訳もない提案をされることが、不覚にも嬉しい、なんて。
「ばかだな」
「バカってなんだよ!」
「お前のことだよチビ。できる訳ねぇだろ。考えろ」
「ッ、心配したのに!」
「はいはい、ご心配どーも」
絶対こいつには言わねぇけど。むっとした表情を露わにするチビに、やっぱり別人なのだと思い知る。実際に傷のあったあの頃の俺が背を見たところで、何を言いもしないだろう。まだ残ってるのかと思うくらいで。
「優しすぎて粗雑に扱いにくいんだよなぁ」
これじゃ、自分の顔をした他人みたいだ。
「なに?」
「なんもねぇよ。ほら、川入るぞ」
「あ、待てって」
チビを置いてざぶざぶと川に入る。思っていた以上に深かったのか、チビは焦った様子を見せる。
「落ち着け。無理して歩かなくても、足が付かないなら泳げばいい」
「わ、かってる」
俺の伸ばした手を掴み、チビはパタパタと水を蹴り始める。
「……いつまでも他人が助けてくれる訳じゃねぇんだから」
「? なんで? あんた今助けてくれたじゃん」
「今のは気まぐれだから。次は助けねぇ」
「なんでだよ、家族みたいなもんだろ。助けろよ」
ぷぅ、と頬を膨らませて生意気なことを訴えるチビ。生意気な割に掴んだ手を離そうとはしないところ、図太い神経をお持ちのようだ。
「お前ってさ、未来の俺っていうより兄貴みたいだな」
「……お前みたいなクソかわいくない弟がいて堪るか」
一足先に川から上がり、チビを引き上げる。ほら、となぜかどや顔を披露され、無性に苛つく。このガキ。
濡れないように運んだ服を着せ、背に乗るよう促す。視線を彷徨わせるチビに、チッと舌打ちをする。
「いいから乗れ」
「でもお前背中が、」
「古傷だつってんだろうが」
「でも嫌だ!」
珍しくはっきりとした主張をしたチビは、「ふん」と呟き俺の手を取る。
「……なんだこれ」
「これならいいだろ! 初めはこれだったんだから」
「よくねぇよ……」
俺を無視してずんずんと歩を進めるチビに、最初とは逆だなと顔を顰める。
「おい、早くしろよ。お前の方が体でけぇんだから遅いと重いんだよ」
「お前が軽いんだよチビ」
重いなら手を離せばいい、と言うと意地になったのかぐいぐいと力を込める。
「……、置いてけよ」
「やだよ」
そんなに必死にならなくてもいいのに。チビが一生懸命に俺を気遣うものだから、なんだか不意に、泣きそうになった。
***
「やっと終わった……」
カーペットの終点まで行く頃にはへとへとになっていた。体が、というよりは精神的なものが大きい。途中、ターザンの格好をした青が何やら理解しがたいことを叫んでいたり、何人かの青が殴り合いをしていたり。何度足を止めかけたか分からない。俺の手を引くチビが逃げるように手を引かなければ、今頃もっと手前で立ち往生していたことだろう。
「……、あれ」
声をかけようと前を見るも、チビの姿はどこにもない。役目は終わった、ということだろうか。勝手な奴だ。
カーペットの途切れた先には、一軒の屋敷が建っていた。夏休みに訪れたものとは外観が違うから、おそらくは夏目の本宅だろう。どうしたものかと選びかねていると、きぃと扉が開かれる。入ってもいいってことかな。
迷いつつ足を踏み入れる。外の見た目に反し、中には一本の廊下が真っ直ぐ伸びているだけだった。先へと進むと扉の開いた部屋がぽつりと一つ。
顔を覗かせるとそこには青がいた。ということはここが青の部屋なのだろうか。はたと、青は書き物をしていた手を止め、こちらを振り返る。
「赤?」
「よ、お」
ここに来るまで散々お前の評価は地に落ちたと伝えるべきか否か。そんな内心に気付くことなく、青はふわりと笑い俺を中に招き入れる。
「……? 赤、どうした。何か悩んでるだろ」
「…………ああ、まぁな」
無駄に鋭い。青は指先で唇を押し、首を傾げる。
「ん……? 最近赤を悩ませそうなことあったかなぁ」
「うん、まぁ極々最近にできた感じだ」
今青の後ろをヒーローのコスチュームを着た妖精サイズの俺が飛んでいったんだが。ぐりぐりと眉間を揉むが、効果はない。当たり前である。
「俺に言えないことか?」
「……、言ってもいいのか?」
お前の精神的に。
一部言葉を伏せて尋ねると、青はぴくりと指を跳ねさせる。「ああ」と覚悟の決まった声が答えた。
なんと言えばいいだろう。お前の夢が……いや、そもそもこの青はこれが夢だと分かっているのか? だめだ、多分分かってない。えぇっと、はっぴー椎名らんどが……ええと……? 喋る花が青で、青が犬で……。まとめようとすればするほど混乱する。こちらが悩んでいるにも拘わらず、当の本人は妖精と戯れはじめるしで最悪だ。
「……お前のことだよ」
半ば恨みを込めて答えると、青の顔はぼんと沸騰する。ぐらり、景色が揺れる。続いてぐにゃり、と歪みはじめた足下に、青が夢から覚めるのだと気付いた。ようやくか。
疲労に溜息を漏らす。ゆらりと揺れる景色に身を委ね――気が付いたら、自分のベッドで横になっていた。
「花ッ、はない! 俺も飛んでない! 青……も、いない! よしっ」
周囲の安全を確かめ、目を瞑る。先程までも寝ていた筈なのだが、疲れていたのか速やかに眠りにつく。
その日の放課後、思わず青を見て一歩引いてしまったのは言うまでもない。
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