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五章橙サイド
周囲の視線を気にする素振りもなく、赤はいつも通りを過ごした。だからこそ怖かったのかもしれない。
赤は初めから強かった訳ではない。俺が初めて会った時、喧嘩の腕っ節自体はすでに完成されていたし、今に至るまで彼の喧嘩で地に伏す姿を見たことはないけど。それでも分かる。
本当に強い人は、初対面の人に話しかけられてああも警戒しないと思うから。
赤は、強くなるまでずっと傷つけられてきた人だ。周囲に怯えて、強くならざるを得なかった。それこそが赤の強さの本質。
助けてと縋ることさえできない臆病さをもった赤が、どうして周囲の悪意を平然と受け流せようか。そんなこと、出来るはずがないのだ。出来るとするなら、それは彼自身が自分の痛みに気付いていないからでしかない。彼の強さは、いつだって自分自身を蔑ろにすることで成立していた。
赤から初めて縋り頼まれた仕事を三浦ごときに譲るのは癪だったが、手遅れになるよりはずっといいと思った。……が、やっぱり面白くないから後日奴のブツが小さいという噂でも流してやろうと思う。せいぜい辱めにあうがいい。
赤は気付いているだろうか。自分の表情の固さに。平気だ、大丈夫だと。普段は正直なくせに、大事な局面になると嘘ばかり。夏休みの時に赤は自分を嘘つきだと称したが、こればっかりは否定できない。椎名由は確かに嘘つきだ。
少しでも学校から離れようと外に連れ出せば、赤の表情はころころと変わった。クレープを食べた時の笑った顔、エスコートされた時の少し照れた顔、俺の好意に対する困った顔。
何度も闊歩した街なのに、デートと一つ言えばデートとして臨んでくれる赤が可愛くて、愛おしくて。喜ぶ顔にときめくと同時、切なさを感じるのは彼の心に俺がいないと分かっているから。
じゃあ誰がいるのか、なんて死んでも口にしてやらないけど。
映画でも、とラブホテルに誘ったのは、この場にいない男に対するささやかな嫌がらせだ。もし、万が一俺が選ばれない時が来たとして。赤が再びこの類の店に入った時、少しでも俺を思い浮かべればいいと思った。
勝てないんじゃないか。不安を認めた小さな抵抗は、それ自体が小さな敗北だった。負けたくない。譲りたくない。俺のいない未来なんて見たくない。俺の方がずっと前から好きだと、そう言っていたのに。
ねぇ、頼むから。
縋ることしかできないなんて滑稽でカッコ悪いけど。
ねぇ赤。俺のことを好きになってよ。
「大丈夫でも大丈夫じゃなくても、心配くらいさせろ」
するりと頬を撫でられ、我に返る。俺と似たようなセリフを吐いた赤は、宥めるように微笑む。
ずるいなぁ。
本当にずるい。
ああ、赤の目元を覆っていて正解だった。
こんな顔、絶対に見られたくない。泣きそうだ。
……随分と感情豊かになったものだと思う。
昔の俺はやりたいことも、何も分からないままただ勉強をするだけのつまらない奴だった。
つまらない自分に気付くこともできないまま、つまらないことをして、つまらない死に方をする。
そうでない道を歩むようになったのは赤のお陰。塾からの帰り道、日の落ちた暗がりの中、一際明るく輝いていた赤のお陰。当時は黒髪だったけど、不思議と網膜に焼き付いて離れなかった。
羨ましいのだと理解したのは、拗ねたような表情で金髪に染めろと要求されてから。めちゃくちゃな要求だとは思わなかった。
俺にとって赤は自由の象徴で、破天荒な要求をされたとしても自然なものと感じたから。
自由の象徴たる彼が自由から程遠い人種だと勘づくのは後々の話だが……。
その彼が今、自身の自由を手に入れようとしてる。未知の感情に首を傾げながらも、僅かに、それでも確かに道を歩んでいる。
「祝福するよ」
無論、祝福するのは赤だけだ。
おいおいと不満げに顔を顰める男を想像しつつ、隣でスヤスヤと寝入っている赤の髪を梳かす。
午前6時。
少し早いがそろそろ赤を起こさなければならない。
「……由」
そっと下の名前を呼ぶも、返事はない。赤、と声をかけると今度はううんと返事があった。
「おはよ、そろそろ起きて」
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