2人が本棚に入れています
本棚に追加
「のどぐろ」君と私
築地市場が豊洲に移動して、現在は一年以上が経過していた。そろそろ押し寄せた観光客も減ってきただろう、そう考えて私達は豊洲市場に観光に来ている。今いるのは一般人でも魚の買い物が出来る、水産仲卸売場棟である。睦君は現役のシェフなので、割と魚の種類にも詳しいようだ。この魚はこう料理すると美味しい、この魚は大抵この時期に出回る、そういう解説を時折受けながら、お土産の鮮魚を物色する。色とりどりで多種多様な魚が並べられていて、年甲斐もなく心が浮き足立った。その中で、特に気になる魚を見つけた。
「……あ!」
赤い鱗をキラキラさせた、お目目ぱっちりの魚。それが他の魚同様に、氷の粒の上に横たわっている。「のどぐろ」と手書きの札が乗せられていて、思わずじろじろと眺めてしまった。これがのどぐろ、即ちアカムツ。アカムツの前で足を止めた私に、睦君はふっと頬を緩めた。
「うん、アカムツだ」
「写真とか調理済のは見た事あるけど、生のは初めて見るなぁ……!」
「……買ってく?」
「え、いいの? でも私、絶対捌けないよ?」
「俺が料理するから。陽菜子は食べてくれればいいよ」
「……買う!」
あだ名がアカムツだった男が、魚のアカムツを捌くのは……ちょっと、いやかなり楽しみだと思った。彼がキッチンでこの子をどう料理するのか、今の時点で非常にわくわくしている。勢いよく宣言した私に、睦君はくすくすと可笑しそうに笑いながら財布を手に取った。
*
帰り道を走る車中で、こんな話をした。
「にしても、睦君とアカムツは全然似てないよね」
「……うん?」
「ほら、顔がさ。睦君っていつも眠そうな目してるじゃん。でもアカムツはかなりギョロ目だからさぁ」
運転席でハンドルを握る彼に、ね?と助手席から同意を求める。すると彼が辛抱堪らんと言わんばかりに吹き出して笑ったので、私はちょっと驚いてしまった。彼の爆笑はなかなかお目にかかれないのである。でもそこまで可笑しな事を言った気はなくて、思わず車内で悶々と考えてしまった。
最初のコメントを投稿しよう!