「のどぐろ」君について

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「のどぐろ」君について

中学の頃の同級生に、「のどぐろ」とあだ名を付けられていた男の子がいる。あだ名が魚の名前とか酷くないか、と思うだろう。無論私も思った。だからずっと罪悪感があった。だって彼が「のどぐろ」と呼ばれるきっかけを作ったのは、私だから。 「のどぐろ」君の話をするには、中学二年の冬に遡る必要がある。冬休み明けの席替えで、私は一番前の窓際の席になった。隣になったのは今まで一度も話した事のない男の子。名前を赤井睦君と言う。彼こそが後の「のどぐろ」君である。 睦君は、見た目からしておっとりした子だ。校則ギリギリの長さの前髪から、眠そうな目がぼんやり覗いている。私も彼も近くの席に友達や知り合いがいなかった。話せる人がいなかったのだ。だから席を移動した後、クラスの皆が移動を終えるまで少し話した。 「えっと、赤井君だよね。よろしく」 「……ん、よろしく。名前、香坂さん……で、あってる?」 「あ、うん。香坂陽菜子」 「あー……よかった、間違ってなくて」 話し方は若干ゆっくりだけど、こちらの呼びかけに素直に返事をしてくれた。会話も滞りなく、それに加え彼の無表情が僅かに和らいだのを見てほっとした。やっぱり近くの席の人とは、友好な関係を築きたいから。そして私はその日のうちに、彼が優しい人だと知る事になった。 中学生の授業となると、先生が「近くの席の人とペアをつくって」と要求してくる事が間々ある。それは席替えをした後も例外ではなく。六時間目の英語の授業で、二人組になるよう言われた。でも不幸な事に、私は付近に友人がいない。いつも休み時間に一緒にいる友達が二人いるのだが、彼女達は互いの席が近いのもあって早々にペアを作ってしまった。私は少し嫌な気持ちになりながら、おずおずと席を立った。焦りながら周囲へ視線を彷徨わせていた私に、声をかけてきたのが赤井君だった。 「香坂さん」 「え、……うん、何?」 「俺と組む?」 驚いて、しばらく黙りこんだ。赤井君は着席したまま、こちらを気の抜けた目つきで見上げている。感情の読めない瞳に、ちょっと逡巡した。でもその誘いは、ありがたい事に他ならない。私は頷きながら「ありがとう」と返して、また席についた。おかげで英語の授業は特に問題なく終わった。 後で聞いたのだが、彼は先生にペアを作るよう言われた時、すぐに私を誘おうと思っていたらしい。曰く、「俺も近くに友達がいないし、香坂さんも困ってたから」だそうで。言ってしまえば利害の一致である。しかしこういう時、自然に他人へ話しかけられるのは彼の美点だと感じた。この一件で私は勝手に、赤井君を他人ではなく友達と知り合いの中間くらいの人としてカウントしていた。 だから私は赤井君に平然と話しかけるようになったし、彼もそれを拒む様子は一切見せなかった。元々赤井君はさっぱりした性格のようで、馴れ馴れしい私にも裏表なく接してくれた。来る者拒まず、と言う感じがぴったりである。それに対し私は、親しいと感じた人にお喋りになる性格だった。私達はよく話すようになったし、私にとって赤井君は唯一親しい男の子だった。既に友達感覚である。だからその日も、班になって食べる給食の時間にこんな事を話したのだ。 「赤井君って周りの友達になんて呼ばれてるの?」 「……睦、かな。俺も男友達は皆呼び捨てだし」 「あだ名とかないんだ。私はほら、陽菜子だからヒナって呼ばれてるんだけど」 「あぁ……そう言えば、香坂さんも友達をあだ名で呼んでなかったっけ」 「そうそう。千春の事をハル、とか南の事をミナ、とかそういう風に」 そこまでなんとなく話して、……ここから先が、彼のあだ名を「のどぐろ」にしてしまう要因だった。 「私さぁ、赤井君にも何かあだ名つけたいんだけど、いいかな」 「え。……うん、いいけど」 「えっとね、じゃあね、……あ、アカムツとかどう?!」 ……弁解させてほしい。その時の私に、悪意など一つも無かった。決して魚の名前を付けてやろう等と考えていなかった。純粋に「赤井睦」略して「アカムツ」だった。アカムツが魚の名前だと、全く知らなかったのである。無知は罪とはよく言ったものだ。 赤井君は一瞬黙り込んで、私をじっと見つめた。多分彼はアカムツが魚の名前だと知っていて、私の真意を測りかねていたのだろう。でも私はその事にまったく気づかず、無遠慮に言葉を続けた。 「赤井睦、略してアカムツ。どうよ?」 自慢げな私の言葉に、彼はこちらの無知を察したらしい。そして珍しく無表情を崩して、苦く笑んだ。 「……まぁ、いいんじゃないかな」 そうしてその後、私は赤井君の事をアカムツと呼び始めた。彼も至って普通に受け入れていたので、私は数日間アカムツが魚の名前だと知らぬまま過ごした。つまり彼は何の関係も無い魚の名前で呼ばれる事を、ずっと受け入れていたわけである。心が広いにもほどがある。 しかしそこに転機が訪れた。最近彼が男友達から、「のどぐろ」と呼ばれている事を知ったのだ。どうやら赤井君のあだ名らしい。はじめは「のどぐろってどんな意味なの?」と思っていたが、流石にその無知っぷりに呆れた友達が教えてくれた。「アンタのせいでしょ」と。最初こそ何を責められているのか分からなかったが、友人二人の説明を聞いて私は顔が真っ青になった。 「アカムツ」とは、とある魚の名前。「のどぐろ」はその別名。私はそうとも知らず、彼をおかしなあだ名で呼び続けていたらしい。その話が彼の友達の間に面白おかしく伝播して、とうとう本名に掠りもしない「のどぐろ」というあだ名になってしまったようだ。 私は酷く気が動転した。彼はどちらのあだ名にも普通に反応していたけど、もしかしたら本心では嫌だったかもしれない。でも常に微睡みを浮かべた彼の目は、多くを語らないのだ。私は今回の事で、途端に彼の事が分からなくなってしまった。今まで彼とどうやって話していたのか、すっかり頭から抜け落ちてしまった気がする。 しかしまずは、彼に謝りを入れなければ。そう思い立ち、授業の合間の五分休みに彼と話した。 「……ねぇ、えっと、……赤井君」 「? ……うん」 私が彼をあだ名で呼ばない事を、不思議に思ったようである。ちょっと首を傾げてみせた彼に、私は慎重に告げた。 「私、アカムツが魚の名前って知らなくて……今、のどぐろって呼ばれてるんでしょ? あの、本当に、ごめんなさい……!」 彼の目の前で手を合わせて、俯き気味の状態で許しを乞うた。祈るような心地だった。何を祈っているのかは、この時はまだよく分かっていなかったが。 「……大丈夫だから」 「でも、私のせいで……」 「本当に平気だから、謝らなくていいよ」 彼の言葉に、普段の平坦さとは違った抑揚を感じた。違和感を感じて、そうっと顔を上げ彼の表情を確認する。 赤井君はじんわりと眉尻を下げて、微かに口元を緩ませていた。凪いだ瞳に、妙な達観を感じる。その顔つきは、諦めや呆れの微笑みのように見えた。私はその時、すとんと納得してしまった。――この人は、私に一つも期待をしていないと。私の事をなんとも思っていないから、変なあだ名をつけられたって怒る事ができないのだと。否、怒っても仕方が無いと、諦められている。友達だと思ってたのは、私だけだったのかもしれない。いやきっとそうだ。だから私は彼に、どうか怒ってくれと祈っていたのだ。 私はショックで二の句が継げなくなって、すぐに視線を下げた。馬鹿みたいに掌を合わせていたのを離して、無意識に膝の上へ拳を握る。ちょうどその後先生が教材を抱えて教室に入ってきて、この話はおしまいになった。 それから、私は赤井君と話すのが怖くなった。彼との会話は大抵私から始まるので、私が話しかけなくなると会話自体が激減した。彼から話しかけられる事も時折あったけど、私の強張る表情を悟られたのか徐々にそれも減っていった。そうして話す事が無くなって、しばらく経つと学年が三年に繰り上がった。三年では赤井君とクラスも別で、顔を合わせる事自体が稀になった。でも何故か赤井君は、周囲の男友達からずっと「のどぐろ」と呼ばれ続けていた。私は彼の友達が「のどぐろ」と例のあだ名を呼ぶ度、心臓が軋む思いだった。 でも中学を卒業すると、皆バラバラになった。年単位で時が経った今では、赤井君の事も色あせた思い出の一つである。しかしまぁ、今でも仄かに罪悪感があるのは事実で。……正直に言うと、私は明日の同窓会に赤井君が来ないか不安だったのである。 *** 自室のソファに座りながら、電話で旧友の千春と同窓会について話していた。スマホ越しに、千春が面倒そうな声音で言う。 「幹事に聞いといたよ。赤井君、仕事の都合で来られないかもだって」 「本当?はぁ……よかった……」 「あのさぁ、そんな気にする必要無くない? もう何年前の事だと思ってんの」 「……でも、本当に申し訳なかったし……」 「……ふーん。まぁいいけどさ。じゃ、また明日ね」 「うん、ありがとう。じゃあね」 通話を切って、ソファの背もたれに体を預ける。スマホを傍らに放って、沈む背をそのままに記憶を反芻して目を瞑る。意図の読めない、霞がかったような赤井君の視線を思い出した。今ではすっかりその目に苦手意識が募っていて、眉間にしわが寄った。 ……彼は来ないから、大丈夫なはず。そう内心で独り言ちて、ため息を吐いた。
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